| 和暦 | 西暦 | 日本の歴史 | 西洋の歴史 | 音楽史 | その他 | 私の年齢 | |
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| [-] | 1年 | 0001 | BC13000 縄文時代始まる
弥生時代
古墳時代 |
【音楽】ネアンデルタール人の笛
43000年前の中期旧石器時代までさかのぼると考えられている。
これは中空になった子供のアナグマの大腿骨であり、いくつかの穴があいていた。
【音楽】ドイツ、ウルム近郊の洞窟から出てきた骨の笛
約36000年前のものであり、現生人類が使用したと考えられている |
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| [-] | 2年 | 0002 | |||||
| [-] | 30年 | 0030 | 【世界】キリストが処刑される |
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| [-] | 67年 | 0067 | 【世界】中国に仏教伝来 |
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| [-] | 100年 | 0100 | 【世界】北朝鮮に高句麗が起こる |
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| [-] | 150年 | 0150 | 【世界】ローマ帝国の全盛時代 |
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| [-] | 208年 | 0208 | 【世界】赤壁の戦い |
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| [-] | 220年 | 0220 | 【世界】中国 三国時代(魏・呉・蜀) |
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| [-] | 221年 | 0221 | 【中国】
221年には現在の四川省に割拠し、漢王朝の復興を唱えていた劉備が皇帝となり、蜀漢を建国した。江南の孫権も229年に皇帝と称し、呉を建国した。この蜀、魏、呉の三国が鼎立した時代を三国時代という。 |
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| [-] | 280年 | 0280 | 【世界】晋が中国を統一(~316) |
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| [-] | 374年 | 0374 | 【音楽】アンブロジオ聖歌
アンブロジオ聖歌(Ambrosian Chant)は、ラテン語のミサに付随した単旋律の聖歌である。アンブロシオ聖歌とも呼ばれる。聖アンブロジウスは、374年から397年までミラノの大司教をつとめた。北イタリアのミラノは、文化的にビザンチンと密接に結びついて発展し、東方教会聖歌の影響を受けている。 |
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| [-] | 375年 | 0375 | 【世界】ゲルマン民族の大移動 |
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| [-] | 400年 | 0400 | 【数学】
『スーリヤ・シッダーンタ』 (Surya Siddhanta) (西暦400年頃)は
三角関数、正弦、余弦、逆正弦関数を導入し、天体の実際の動き、
空の中での実際の位置を決定する法則の基礎を築いた。 |
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| [-] | 401年 | 0401 | 【数学】
南北朝時代の祖沖之(5世紀)は、円周率の値を小数点以下
第7位まで計算した。これは以後1,000年間、最も正確な値であった。 |
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| [-] | 420年 | 0420 | 【世界】宋、成立(南朝)(~479) |
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| [-] | 467年 | 0467 | 西ローマ帝国の滅亡 |
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| [-] | 476年 | 0476 | 西ローマ帝国の滅亡
地図https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/Byzantine_Empire_animated.gif |
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| [-] | 538年 | 0538 | 仏教伝来(552年説あり) |
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| [-] | 570年 | 0570 | 【世界】マホメット生まれる(~632) |
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| [-] | 574年 | 0574 | 聖徳太子生まれる |
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| [-] | 589年 | 0589 | 【世界】隋が中国を統一 |
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| [-] | 592年 | 0592 | |||||
| [-] | 593年 | 0593 | 聖徳太子、推古天皇の摂政となる(18歳)
このあたりの時代に「秦河勝」が推古天皇11年(603年)
聖徳太子等を主君とした。 |
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| [-] | 604年 | 0604 | 十七条憲法 冠位12階制定 |
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| [-] | 618年 | 0618 | 【世界】隋が滅亡、唐が中国を統一(~907) |
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| [-] | 676年 | 0676 | 【世界】新羅が朝鮮半島を統一 |
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| [-] | 710年 | 0710 | 平城京に遷都(745年のものもあり) |
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| [-] | 737年 | 0737 | 東山道が開発される |
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| [-] | 740年 | 0740 | 12月、聖武天皇、恭仁京の建設を開始する |
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| [-] | 750年 | 0750 | 【音楽】グレゴリオ聖歌が発達
9世紀から10世紀という本もある
「短旋律によって歌われる、ローマ・カトリック教会で歌われる
ラテン語による聖歌」
異端審問・火炙り天変地異・魔女・憑依・悪魔・巡礼・托鉢
映画エクソシストを地で言っていた。時代背景。教会の中から聞こえる
聖歌はどのように聞こえたのか。呪文であったのか、綺麗な歌だったの
か。
【音楽】中国から「能」が伝えられる
雅楽も飛鳥から平安のどこかで伝来する |
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| [-] | 774年 | 0774 | 【空海誕生】
774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代
初期の僧。諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。真言宗の開祖。俗名は
佐伯 眞魚
754年、唐から鑑真(688~763)が来朝し、授戒の制を確立した。
鑑真の開創した寺院が唐招提寺で、今に律宗を伝えている。 |
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| [-] | 794年 | 0794 | 平安京に遷都 |
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| [-] | 800年 | 0800 | この頃【ヨーロッパ文化圏】が形成される(カール大帝)(支配地域のキリスト教化)ヨーロッパ形成と楽譜技法化が同時に作られていく。(文化形成と横並び)絵はほとんどが宗教画。構図は決められた慣習が存在して、個人的な想像を入れ込む余地は無かった。 【オーストリア】フランク王国のカール大帝がローマ教皇から帝冠を授かり、西ローマ帝国復活【神聖ローマ帝国】(しんせいローマていこく、ドイツ語: Heiliges Römisches Reich, ラテン語: Sacrum Romanum Imperium, 英語: Holy Roman Empire)は、かつて中央ヨーロッパに存在した、「ドイツ王」を称する皇帝によって統括された「ドイツ国家」[1]で、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部を中心に存在していた多民族国家である[2][3]。9世紀から10世紀に成立し、1806年まで存続していた。最初はまとまった統一国家であったが、14世紀から国家としての機能を徐々に停止し、統治下の非ドイツの領土も次々と失い、終に国号は「ドイツ国民の」という前綴語が加えられた。17世紀のヴェストファーレン条約により、神聖ローマ帝国は名目だけを残し、帝国内の300以上の王国・公国・帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地は事実上の独立を得て、ドイツ人の国家連合としての性格が明らかとなった。皇帝の座を独占しつつ、オーストリア大公国を本拠地とするハプスブルク家のみは帝国と看做された。1806年、ナポレオン・ボナパルトによって神聖ローマ帝国は解体され、帝国の皇位はオーストリア帝国に移った。プロイセン王国支配下の領土は帝国から離脱し、それ以外の全ての小国はライン同盟の傘下に移入した。帝国が滅んだ後、勢力均衡の要領はウィーン体制に継承された。https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c2/HRR.gif/250px-HRR.gif |
【音楽】オルガヌム技法
ヨーロッパの初期多声音楽の一形態。既存の旋律(通常グレゴリオ聖歌)を主声部とし、第2、さらには第3、第4声部を付加した楽曲。最古の例は9世紀の音楽理論書にみられ、11世紀までいくつかの理論書にその実例があげられている。1200年という記述もある。
オルガヌムとは聖歌をすこし変え、付け加えたりして編曲まがいの事をする。この事を言った。(まだ楽譜と呼べるようなものではなかった。) |
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| [-] | 806年 | 0806 | 【最澄】は天台教学を究め、密教と禅と律の伝授も受けて帰朝し、
806年、円(天台教学)・密・禅・戒・の四宗を綜合する
天台法華宗を開創した。 |
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| [-] | 835年 | 0835 | 空海没 |
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| [-] | 918年 | 0918 | 【世界】朝鮮に高麗が起こる |
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| [-] | 940年 | 0940 | 平将門死亡 |
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| [-] | 961年 | 0961 | 【音楽】神楽(かぐら)
日本の神道の神事において神に奉納するため奏される歌舞。
平安中期に様式が完成 |
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| [-] | 962年 | 0962 | 【オーストリア】ザクセン家のオットー1世がローマ教皇から帝冠を授かり、神聖ローマ帝国誕生 |
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| [-] | 1000年 | 1000 | 騎士道物語11世紀頃からフランスを中心に発達し、吟遊詩人により歌われた武勲詩が発展したものである。初期は韻文作品のみだが、後期には散文作品も作られた。 それまでのラテン語ではなくフランス語、スペイン語などのロマンス諸語で書かれたという点も重要である。つまり重々しさのない言葉で語られた。後に恋愛小説を意味することになる「ロマンス」のはしりとなる。 |
スコラ学(スコラがく)とは、ラテン語の「scholasticus」(学校に属するもの)に由来する言葉で、11世紀以降に主として西方教会のキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された「学問のスタイル」のこと。このスコラ学の方法論にのっとった学問、例えば哲学・神学を特にスコラ哲学・スコラ神学などのようにいう。哲学は神学の婢(てつがくはしんがくのはしため)スコラ哲学で、神の恩恵や啓示では解明出来ない哲学は最も高度な科学である神学に従属するものでなければならない、というラテン語の慣用句(英語版)である |
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| [-] | 1022年 | 1022 | フランスではじめ異端審問あり。オルレア地方。後の魔女狩りにつながる |
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| [-] | 1054年 | 1054 | 東西教会の分裂1054年、ローマ教会とコンスタンディヌーポリ教会は主にローマ教皇の教皇首位権を巡って対立が深まっていたが、使節としてコンスタンディヌーポリを訪れていた枢機卿フンベルトはコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世キルラリオスの非礼に怒り、ミハイル1世キルラリオスとその同調者に対する破門状をアギア・ソフィア大聖堂の宝座に叩き付けた。これに対し、ミハイル1世キルラリオスは枢機卿フンベルトとその一行を破門した[4]。 |
【東西教会の分裂】(とうざいきょうかいのぶんれつ)は、キリスト教教会が、ローマ教皇を首長とするカトリック教会(西方教会)と、東方の正教会とに二分されたことをいう。この東西教会の分裂は、多くのシスマ(分裂)の中でも史上最大規模だったことから大シスマとも呼ばれる[注釈 1]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:ChristianityBranches-2ja.svg |
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| [-] | 1099年 | 1099 | 【世界】十字軍がエルサレム王国を建てる |
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| [-] | 1100年 | 1100 | 【音楽】グイード・ダレッツォが
現在の楽譜の記譜法の原型を考案。 |
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| [-] | 1108年 | 1108 | 浅間山大爆発 |
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| [-] | 1119年 | 1119 | 【テンプル騎士団創設】 |
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| [-] | 1128年 | 1128 | 浅間山大爆発 |
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| [-] | 1136年 | 1136 | 【アーサー王物語】
アーサーの生涯がはじめてまとまった形をとったのは、1136年頃ウェールズ人ジェフリー・オブ・モンマスが書いた『ブリタニア列王史』においてである。
『ブリタニア列王史』は歴史書の体裁を取っているものの、非現実的な部分が多くを占めており、今日の伝説上の人物としてのアーサー王のイメージはここから始まると言ってよい。以降、彼の作品とそれを基にしたアングロ=ノルマンの詩人ウァースの『ブリュ物語』(1155年頃)、それにウェールズ人と共通の文化を有するブルターニュのブルトン人などを経由して、アーサーの伝説は西ヨーロッパ全体伝播してゆく。 |
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| [-] | 1140年 | 1140 | 【ボローニャ大学 】イタリアの法学校の中で特に有名になったのが、ボローニャの学校である。ここには12世紀初頭にイルネリウスという学者が現れてローマ法の注釈を行い、続いて1140年頃にグラティアヌスという人物が教会法の教科書を執筆した。いつの頃からかボローニャにはイタリアのみならずドイツやフランスからも法律を学ぼうとする人々(つまり学生)が数百人も群れ集まるようになっていた。遠方から単身やってきた学生たちは、まず、下宿代や生活必需品の値段をつり上げるボローニャ市民に対抗するために「組合(ウニヴェルシタス)」を結成した。これが現在に至る「大学」のそもそもの起源である。当時の学校は定まった建物を持っていなかったので、下宿代を下げなければ学生一同で他所に引っ越すことも簡単だと言われた町の人々は(学生に退去されて一銭も入らなくなるより安値でも入った方がマシだと)やむなく学生の要求を飲むことにした。学生は出身地ごとに「国民団」を編成し、最初は4つ、後には2つのそれを設置した。学生の大半はかなり歳をくっており、実家が貴族階級という者もいたことから交渉ごとが得意であった。 |
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| [-] | 1185年 | 1185 | 平氏が滅亡 |
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| [-] | 1192年 | 1192 | 源頼朝が征夷大将軍に就任する(日 不明) |
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| [-] | 1206年 | 1206 | 【世界】チンギス・カン モンゴル帝国 (在位:1206年 - 1227年) |
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| [-] | 1206年 | 1206 | 【世界】チンギス・カン モンゴル帝国 (在位:1206年 - 1227年) |
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| [-] | 1246年 | 1246 | 【オーストリア】
バーベンベルク家が断絶 |
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| [-] | 1271年 | 1271 | 【中国】
1271年にクビライは元を国号として中国支配をすすめた。 |
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| [-] | 1273年 | 1273 | 【オーストリア・ドイツ】
ハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ王に即位 |
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| [-] | 1282年 | 1282 | 【オーストリア・ドイツ】
ルドルフ1世がウィーンに拠点を移し、ハプスブルク家の
オーストリア統治が始まる |
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| [-] | 1286年 | 1286 | 【スコットランド独立戦争】
1286年にスコットランドのアレグザンダー3世が死ぬと、国は王位継承の危機に見舞われ、イングランド王エドワード1世が仲裁に乗り出した。
エドワードがスコットランドに対する大君主制を主張すると、スコットランド独立戦争に発展した[14]。イングランドは結局敗れ、スコットランドはステュアート朝の下で強力な国家を発展させることが可能になった[15]。 |
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| [-] | 1291年 | 1291 | 【オーストリア・ドイツ】
ルドルフ1世が死去。ナッサウ家のアドルフがドイツ王に即位 |
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| [-] | 1298年 | 1298 | 【オーストリア・ドイツ】
アドルフが廃位され、ルドルフ1世の子アルプレヒト1世がドイツ王に即位 |
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| [-] | 1300年 | 1300 | 【音楽】ルネッサンス
ルネッサンス(Renaissance)とは、もともと「復活」や「再生」を表すフランス語であり、14世紀から16盛期頃にかけて西ヨーロッパ全体に広まっていった文化運動やその時代を指す言葉である。 ルネッサンスの時代より前の中世ヨーロッパ文化は、キリスト教(ローマ・カトリック教会)の影響が非常に強かった。 |
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| [-] | 1301年 | 1301 | 尺八 |
【音楽】
アルス・ノヴァ(新芸術)の音楽
14世紀に入ってまもなく、フランスのヴィトリ(Ph. de Vitri, 1291-1361)が、14世紀初頭の新しい音楽について理論的にまとめ、それを《アルス・ノヴァ》と題して発表したことから、この時期の音楽をアルス・ノヴァとよぶようになりました。そして《アルス・ノヴァ》は後には、14世紀全体の音楽を意味する言葉として用いられるようになったのです。 |
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| [-] | 1308年 | 1308 | 【オーストリア・ドイツ】
アルプレヒト1世が暗殺され、ルクセンブルク家のハインリッヒ7世が
ドイツ王に即位 |
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| [-] | 1315年 | 1315 | 【ヨーロッパ大飢饉や黒死病】
1315年から1317年の大飢饉や黒死病といった、一連の飢饉と疫病に
よって人口が激減した。 |
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| [-] | 1320年 | 1320 | 1320年の羊飼い十字軍(英語版)。 |
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| [-] | 1336年 | 1336 | 朝廷が南朝と北朝に分裂する |
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| [-] | 1337年 | 1337 | イングランドとフランスの間で百年戦争が始まる(-1453年)。 |
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| [-] | 1338年 | 1338 | 足利尊氏が征夷大将軍に就任する(日 不明) |
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| [-] | 1341年 | 1341 | 東ローマ帝位継承戦争(1341 - 1347年) |
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| [-] | 1346年 | 1346 | ペスト猛威
黒死病(こくしびょう 英:Black Death)とは、1346年から1353年にかけてアフロ・ユーラシア大陸でパンデミックを起こした腺ペストの俗称である。
「黒死病」という名の由来は、症状が進行すると敗血症による皮膚の出血斑で体が黒ずんで見え、発病から2-3日で死亡してしまったためだと考えられている[1]。
ユーラシアと北アフリカで7500万-2億人が死亡した、人類史上最も死亡者が多いパンデミックとして記録されており、ヨーロッパでは1347年から1351年にかけてピークに達した[2][3]。腺ペストはペスト菌によって引き起こされる病気で、敗血症ペストや肺ペストをも引き起こす場合がある[4][5]。 |
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| [-] | 1350年 | 1350 | タイでアユタヤ王朝成立。 |
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| [-] | 1355年 | 1355 | 【オーストリア・ドイツ】
ルクセンブルク家のカール4世(ボヘミア王カレル1世)が
神聖ローマ皇帝に即位 |
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| [-] | 1358年 | 1358 | 【足利義詮】が室町幕府第2代将軍となる。 |
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| [-] | 1368年 | 1368 | 【中国】
漢民族が率いる一連の反乱運動と自然災害ののち、1368年に
朱元章により明王朝が設立 |
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| [-] | 1370年 | 1370 | リオネル・パワー
(Leonel Power、1370年代? - 1445年6月5日)は、
イングランドの初期ルネサンス音楽の作曲家。ジョン・ダンスタブルと並んで、15世紀初頭のイングランド音楽における巨頭の一人である。
中世音楽後期から初期ルネサンス音楽への過渡期に、さまざまな作曲様式によって作品を遺した。 |
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| [-] | 1375年 | 1375 | アステカ王国の成立。 |
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| [-] | 1397年 | 1397 | 【チェンバロ(ハープシコード)】
とあるパドヴァの法学生が1397年に書いた記述に見え、ヘルマン・ポールという人物が「クラヴィチェンバルム」(clavicembalum)という楽器を発明したと記されている。
ギヨーム・デュファイ
(またはデュフェ[1]、Guillaume du Fay、
1397年8月5日 - 1474年11月27日)はルネサンス期のブルゴーニュ楽派の音楽家である。「ギヨーム・デュ・ファイ」(またはデュ・フェ、Guillaume Du Fay、Du Fayt) とも表記される。音楽の形式および精神の点で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行なった音楽史上の巨匠である。 |
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| [-] | 1400年 | 1400 | *魔女狩り*
はじめての魔女狩りが行われる。 |
石炭がエネルギー源、暖房用として大変重要になった |
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| [-] | 1410年 | 1410 | 【オーストリア・ドイツ】カール4世の息子、ジギスムントが神聖ローマ皇帝に即位
【イタリアメディチ家】
1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。 |
ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem, 1410年頃 - 1497年2月6日)は、フランドル楽派初期の指導的な作曲家である。しばしば、デュファイとジョスカン・デ・プレの間の世代で最も重要な作曲家と看做されている。この時代の作曲家には典型的なことではあるのだが、デュファイやジョスカンなどと比べても生涯については不明な点が多く、大半の作品の作曲の背景、年代なども数曲を除いて未確認である。 |
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| [-] | 1420年 | 1420 | ユゴー・ド・ランタン
(Hugo de Lantins, 1420年~1430年に活躍)は、
中世からルネサンスの過渡期に活躍したブルゴーニュ楽派の作曲家。
イタリアにおいて、特にヴェネツィアにおいて活躍し、聖俗両面において作品を残した。同時代にイタリアで活躍したアルノルド・ド・ランタンの親戚かもしれない。 |
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| [-] | 1430年 | 1430 | アントワーヌ・ビュノワ
(Antoine Busnois あるいは Busnoys ,
1430年頃 - 1492年11月6日)は
ブルゴーニュ公国の作曲家・作詞家。モテットのような宗教音楽の作曲家
として有名だが、15世紀においては最も著名な世俗シャンソンの作者だった。 |
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| [-] | 1431年 | 1431 | ジャンヌダルク没(1412生誕) |
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| [-] | 1438年 | 1438 | 【オーストリア・ドイツ】
ルクセンブルク家の皇帝ジギスムントが死去。ハプスブルク家の
アルプレヒト2世がドイツ王に即位 |
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| [-] | 1440年 | 1440 | 【オーストリア・ドイツ】
フリードリヒ3世、ドイツ王に即位 |
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| [-] | 1445年 | 1445 | ロイゼ・コンペール
(Loÿset Compère, 1445年頃~1518年8月16日)は
16世紀初頭のフランスの作曲家。ジョスカン・デ・プレの同世代人
のうち、モテットやシャンソンの最も重要な作曲家の一人で、軽快な
イタリア・ルネサンス音楽の様式をフランスに最初にもたらした一人
でもある。「ロイゼ」は中世フランス語の読みに従った表記で、現代
フランス語では「ロワゼ」とするのが一般的である。 |
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| [-] | 1450年 | 1450 | 【活版印刷術を発明】
近代印刷術の祖といわれるのがドイツの金細工師ヨハネス・グーテンベルクです。1450年頃、活字の開発とそれを使った活版印刷術を発明し、出回った数多くの書物が、人々の知識欲を満たし情報を広めたことが、ヨーロッパにおける文芸復興(ルネッサンス)、宗教改革、近世社会の到来に大きく貢献したのです。 |
ハインリヒ・イザーク
(Heinrich Isaac 1450年頃 -
1517年3月26日)は、
盛期ルネサンス音楽のフランドル楽派の作曲家[1]。ジョスカンと同世代の
作曲家の中では最も重要と看做されている。 |
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| [-] | 1453年 | 1453 | 【オーストリア・ドイツ】
フリードリヒ3世、ローマ教皇から神聖ローマ帝国の皇帝に戴冠される
オスマン帝国がコンスタンティノープルを攻略し、 ビザンティン帝国滅亡。15世紀中頃から新たな交易ルートの開拓を目指して、ポルトガル・ スペインを中心に航海ブームが起き、大航海時代に突入した。 |
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| [-] | 1460年 | 1460 | ピエール・ド・ラ=リュー
(Pierre de La Rue, 1460年頃~1518年11月20日)は
ルネサンス音楽の作曲家。ジョスカン・デ・プレと同世代の作曲家で、
アレクサンダー・アグリーコラやアントワーヌ・ブリュメル、
ロイゼ・コンペール、イザーク、ヤーコプ・オブレヒト、
ガスパル・ファン・ヴェールベケらと並んで、15世紀末から16世紀初頭にかけてネーデルラント楽派様式の指導力を担った一人。
フラマン語名ペテレス・ファン・ストラーテン(Peteren van Straten)も伝えられている[1][2]。 |
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| [-] | 1467年 | 1467 | 応仁の乱(~1477年) |
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| [-] | 1480年 | 1480 | フィリップ・ヴェルドロ(Philippe Verdelot)は、
フランス出身の作曲家。生涯のほとんどをイタリアで暮らした。
一般にイタリア・マドリガーレの創始者と見なされており、マドリガーレ草創期に最も数多くこのジャンルを手懸けた作曲家であった。
サヴォナローラの信奉者からメディチ家がフィレンツェを奪還した後、同地の音楽界で重要な立場にあり、ジャック・アルカデルトらに影響を与えた。生没年は不詳で、1480年ごろ(±5年)に生まれ、1531年
前後もしくは1552年に没したとされている。 |
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| [-] | 1490年 | 1490 | アドリアン・ヴィラールト
(Adrian Willaert, 1490年頃 - 1562年12月7日)は
フランドル出身の盛期ルネサンス音楽の作曲家。 ヴェネツィア楽派の開祖で、イタリアに移住してフランドル楽派のポリフォニー様式を同地に定着させた世代の、北方出身者のうち代表的人物。 |
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| [-] | 1492年 | 1492 | 【世界】コロンブスが新大陸を発見 |
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| [-] | 1493年 | 1493 | 明応の政変(1493年) |
【オーストリア・ドイツ】フリードリヒ3世が死去。マクシミリアン1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
【コロンブスの率いるスペイン軍】は、数ヶ月で5万人以上のインディアンを殺害した。以後10年間にわたり毎回数千人の住民を殺害する。 |
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| [-] | 1495年 | 1495 | ニコラ・ゴンベール
(Nicolas Gombert, 1495年頃〜1560年頃)はルネサンス時代の
フランドル楽派の作曲家。ジョスカン・デ・プレとパレストリーナの間の世代では最も有名かつ最も影響力のあった作曲家で、存分に展開される複雑なポリフォニー様式は、音楽史における過渡期の最良の典型となっている。 |
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| [-] | 1498年 | 1498 | 【ヴァスコ・ダ・ガマ】
1498年のヴァスコ・ダ・ガマによるアフリカ経由のインドへの周航 |
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| [-] | 1504年 | 1504 | ジャック・アルカデルト(Jacques Arcadelt)
またはヤコブ・アルカデルト
(Jacob Arcadelt, 1504年もしくは1505年 - 1568年
10月14日 パリ)は、盛期ルネサンスのフランドル楽派の作曲家。
姓についてはアルカデ(Arcadet)、アルカダン(Arcadent)とも。
もっぱらマドリガーレやシャンソンのような世俗音楽の作者であった。
出身はリエージュだった可能性が高いが、近年ではフランス人説も
濃厚になってきた。 |
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| [-] | 1513年 | 1513 | 真田幸隆生まれる |
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| [-] | 1516年 | 1516 | 【イタリアメディチ家】
1516年にレオ10世がウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレを破門したことからウルビーノ戦争が勃発したが、レオ10世が抜擢したジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(後の黒隊長ジョヴァンニ)に鎮圧された。 |
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| [-] | 1517年 | 1517 | 真田信綱生まれる。 |
【オーストリアドイツ周辺】ドイツでマルティン・ルターによる宗教改革がはじまる。1517年、教会による贖宥状(免罪符)の販売に対して、ヴィッテンベルク大学神学部教授のマルティン・ルターが、95ヶ条の論題を示して批判を行った。まだ、この段階ではローマ教皇やカトリック教会そのものの批判にまでは至ることはなかったが、このルターの言動は大きな共感を持って受け入れられたため、ドイツ内に大きな波紋を生みだすことになった。事態の沈静化を図ったカトリック側は、論客ヨハン・エックをライプツィヒに送り、1519年にルターと討論させた。この場においてルターは、さらに踏み込んで教皇、カトリックに対する批判を示すことになった。 |
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| [-] | 1519年 | 1519 | 【オーストリアドイツ】
カール5世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位 |
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| [-] | 1520年 | 1520 | ジュアン・タブロ(Jehan Tabourot)、
筆名トワノ・アルボ(Thoinot Arbeau, 1520年3月17日ディジョン -
1595年7月23日ラングル没)は、ラングルの司祭。
1589年(勅許は1588年)に出版した、ヨーロッパ史上初めて
音楽とダンスのステップを細かく記述したオルケゾグラフィ
(Orchésographie)の著者として有名である。 |
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| [-] | 1521年 | 1521 | 武田信玄生まれる |
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| [-] | 1525年 | 1525 | 【オーストリアドイツ】
ハプスブルク家の軍隊がイタリアのパヴィアでフランス軍に勝利 |
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| [-] | 1526年 | 1526 | 【オーストリアドイツ 周辺】
フェルディナント1世がボヘミア王とハンガリー王に即位 |
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| [-] | 1527年 | 1527 | 【ローマ劫掠】この頃、イタリアを巡ってはヴァロワ朝のフランス王国と神聖ローマ帝国による衝突が繰り返されてきた(イタリア戦争)。1515年にはフランス王フランソワ1世の軍がミラノに侵攻し、1521年にミラノ公国を支配するスフォルツァ家を追放するが、神聖ローマ皇帝カール5世は教皇レオ10世と結んでミラノを攻めたので、フランス軍はミラノから退去している。しかし教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)はフランス王と皇帝のどちらに就くか揺れており、フランスと結んだ事が、ローマ略奪のきっかけになる。1526年、パヴィアの戦いに敗れカール5世の捕虜になっていたフランソワ1世が釈放されると、カール5世に対抗するコニャック同盟を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ1世・デステを破門し、ローマに幽閉した。これに対し、カール5世はローマへ軍勢を差し向け、スペイン兵、イタリア兵などからなる皇帝軍とドイツの傭兵(ランツクネヒト)がローマに進軍した。ドイツ兵にはカトリックを憎むルター派が多かったという。また長期の行軍に給料の支払いも悪く、飢えた兵も多かった。1527年5月6日、ローマで皇帝軍と教皇軍の衝突が始まるが、クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、教皇軍は敗北した。この時、皇帝軍の指揮官であったブルボン公シャルル3世が戦死したが、指揮官を失ったにもかかわらず、配下の兵たちの士気はむしろ高まった。そして統制を失った軍勢はローマで破壊と略奪の限りを尽くした。市民らはなすすべもなく、6月に教皇は降伏した。皇帝軍がローマを撤退したのは翌年であった。モーリス・セーヴはその惨状を以下のように綴っている。 |
【イタリアメディチ家】
クレメンス7世は当時の複雑な政治状況の中、フランスと同盟を結んだことで、1527年に神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の報復を受け、ローマ略奪の大惨事を招く。同時にメディチ家も再度フィレンツェを追放される |
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| [-] | 1533年 | 1533 | 【世界】インカ帝国滅亡 |
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| [-] | 1534年 | 1534 | 織田信長生まれる |
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| [-] | 1543年 | 1543 | 真田昌輝生まれる。
1/31 徳川家康生まれる |
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| [-] | 1547年 | 1547 | 真田昌幸生まれる |
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| [-] | 1548年 | 1548 | 【トマス・ルイス・デ・ビクトリア】生誕は、黄金世紀スペインの生んだルネサンス音楽最大の作曲家の一人。16世紀スペインの作曲家では最も有名であり、多くの人からパレストリーナに次ぐポリフォニックな教会音楽の大家と見なされている。 |
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| [-] | 1549年 | 1549 | イエズス会のフランシスコ・ザビエル、薩摩国鹿児島に上陸し、
キリスト教を伝える。 |
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| [-] | 1550年 | 1550 | 【バイオリン発明?】
バイオリンの先祖とされる楽器と比べて、バイオリンの楽器としての完成度は並はずれていました。しかも、改良を重ねて徐々に完成されたのではなく、1550年ごろ突如として、最初から完全なかたちで誕生したといわれています。といっても、最初のバイオリンが現在残っているわけではありません。このころの絵画にバイオリンが描かれていることから推測されたことなのです。
ヤコブス・ガッルスまたはヤーコプ・ハンドル
(Jacobus Gallus Carniolus (Jacob Handl), 1550年 クライン地方ライフニッツ Reifnitz(現スロベニア南部・リブニツァ Ribnica) - 1591年7月18日 プラハ)は、スロベニア出身の後期ルネサンス音楽の作曲家、シトー会会士。宗教曲で著名。ラテン語形の氏名を好んで名乗り、しばしば付属の Carniolus を加えたことから、スロベニアでは「カルニオラ Carniola」(クライナ地方 Krajna の出身者の意味)の名で呼ばれている。元の名前はヤコプ・ペテリン(Jakob Petelin)。 |
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| [-] | 1551年 | 1551 | 真田幸隆、戸石城をおとす。 |
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| [-] | 1553年 | 1553 | - 1564年(永禄7年) 川中島の戦い |
【ルカ・マレンツィオ】生誕は、イタリア後期ルネサンス音楽の作曲家。当時を代表するもっとも著名なマドリガーレ作曲家の一人で、マドリガーレの後期の発展段階において、クラウディオ・モンテヴェルディによる初期バロック音楽への過渡期に先駆けて、おそらく最もすぐれた実践例を残した。 |
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| [-] | 1556年 | 1556 | 【オーストリアドイツ 周辺】
カール5世が退位し、フェルディナント1世が神聖ローマ帝国の皇帝に
即位。帝国はオーストリア系とスペイン系に分裂 |
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| [-] | 1560年 | 1560 | 桶狭間の戦い |
日本に三味線伝来
人形浄瑠璃の誕生 |
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| [-] | 1561年 | 1561 | 【ヤコポ・ペーリ】生誕はイタリア・ルネサンス末期からバロック初期にかけて活躍した音楽家で、初めてオペラを作曲した人物である。 16世紀末のフィレンツェで、ジョバンニ・デ・バルディ伯爵を中心に古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まった。 |
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| [-] | 1562年 | 1562 | 【石村 検校】(いしむら けんぎょう、1562年(永禄5年)頃 - 1642年10月17日(寛永19年9月24日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した筝曲作曲家、三味線奏者である。盲目であったとされる[1]。【ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク】(Jan Pieterszoon Sweelinck, 1562年4月 - 1621年10月16日 アムステルダム)は、オランダの作曲家・オルガニスト。ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の最初期において、北ドイツ・オルガン楽派の育成に寄与した。音楽家としても教育者としても、イタリアのフレスコバルディに匹敵する存在である。スヴェーリンクと表記されることもある。彼の肖像は1970年代のオランダの25ギルダー紙幣に描かれていた。 |
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| [-] | 1563年 | 1563 | 【ジョン・ダウランド】(英語: John Dowland)は、イングランドのエリザベス朝後期およびそれに続く時代に活動した作曲家・リュート奏者。デンマーク王クリスチャン4世の宮廷リュート奏者や、イングランド王ジェームズ1世およびチャールズ1世の宮廷リュート奏者を務めた。エリザベス朝前後に流行したメランコリア(憂鬱)の芸術の巨匠とされ[1]、特に代表作であるリュート歌曲『流れよ、わが涙』(1600年)とその器楽曲版『涙のパヴァーヌ』は当時の欧州で群を抜いて最も高名な楽曲として、東欧を除く全ヨーロッパで広く演奏された[2]。20世紀の音楽学研究者・リュート奏者ダイアナ・ポールトン(英語版)らによる古楽復興運動以来再び注目を浴び、クラシック・ギターへの編曲も多く作られた他、2006年にはイギリスを代表するロック歌手スティングによってカバーアルバムが作られた。 |
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| [-] | 1564年 | 1564 | 【オーストリアドイツ 周辺】
フェルディナント1世が死去。マクシミリアン2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位 |
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| [-] | 1566年 | 1566 | 真田伸幸、生まれる。 |
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| [-] | 1568年 | 1568 | 織田信長が京都に入る。 |
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| [-] | 1571年 | 1571 | 信長、比叡山を焼き討ちする。 |
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| [-] | 1572年 | 1572 | 三方ヶ原の戦いで武田信玄が徳川家康を破る |
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| [-] | 1573年 | 1573 | 武田信玄、死去(53才) |
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| [-] | 1574年 | 1574 | 真田幸隆、死去(62才) |
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| [-] | 1575年 | 1575 | 長篠の戦い |
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| [-] | 1576年 | 1576 | 【オーストリアドイツ 周辺】
ルドルフ2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位 |
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| [-] | 1578年 | 1578 | 上杉謙信、死去。 |
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| [-] | 1581年 | 1581 | オランダ独立宣言 |
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| [-] | 1582年 | 1582 | 本能寺の変(織田信長自害) |
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| [-] | 1583年 | 1583 | 秀吉、大坂城を築く。 |
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| [-] | 1585年 | 1585 | 家康が昌幸を攻めるため小県に出兵。
昌幸は海津城に信繁(幸村)を人質に出し、
上杉景勝に援助を求める。
同月、昌幸・信幸父子国分寺で徳川軍を破り、
天下に勇名を博す。(第一次上田合戦) |
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| [-] | 1590年 | 1590 | 真田信幸、徳川家康の養女小松姫を妻に迎える。 |
豊臣秀吉が全国統一
真田信幸、徳川家康の養女小松姫を妻に迎える。 |
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| [-] | 1596年 | 1596 | 【科・物】フランス哲学者デカルト生まれる
フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。 |
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| [-] | 1598年 | 1598 | 秀吉、死去。 |
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| [-] | 1600年 | 1600 | 「関ヶ原の戦い」で家康が西軍を破る
石田三成が処刑される(月・日 不明) |
【音楽】和声法が出てくる。
ルネサンス末期から17世紀にかけて、音楽が徐々に調性感をもち始めると、対位法もまたその影響を受けて、音の縦の連なり(和声法)を考慮に入れるようになる。こうして和声対位法は成立し、J・S・バッハにおいてその頂点が築かれるに至る。 |
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| [-] | 1600年 | 1600 | 関ヶ原の合戦。徳川秀忠、上田城を攻撃
(第二次上田合戦)
11月昌幸・信繁(幸村)、九度山に閉居。信幸、
信之と改名。上田城へ移る。 |
【音楽】バロック音楽
バロックとは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった |
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| [-] | 1601年 | 1601 | 【科・物】数学者フェルマー誕生
ピエール・ド・フェルマーはフランスの裁判官であり数学者。フェル
マーの定理で知られ、「数論の父」とも呼ばれる。 |
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| [-] | 1602年 | 1602 | 【世界】オランダが東インド会社を設立
1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会
社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民
地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であ
り、帝国主義の先駆け。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国
を築いた。 |
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| [-] | 1603年 | 1603 | 家康が征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開く |
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| [-] | 1604年 | 1604 | 【科・物】ガリレオガリレイ 落体の法則
ガリレオ・ガリレイは、イタリアの物理学者、天文学者。 近代科学的な手法を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる。また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。
最初は医学をピサ大学で学んだが、ユークリッドやアルキメデスの本を読むうちに数学や力学へと関心が移った。 |
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| [-] | 1605年 | 1605 | 【2将軍 徳川秀忠】 |
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| [-] | 1608年 | 1608 | 望遠鏡の発明(リッペルスハイ) |
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| [-] | 1609年 | 1609 | ケプラー:ケプラーの3法則
惑星の公転周期の2乗は軌道長半径の3乗に比例 |
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| [-] | 1611年 | 1611 | 真田昌幸、九度山にて死去(65才) |
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| [-] | 1612年 | 1612 | 【オーストリアドイツ 周辺】
ルドルフ2世が死去。弟のマティアスが神聖ローマ帝国の皇帝に即位 |
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| [-] | 1613年 | 1613 | 【世界】ロシアにロマノフ王朝できる |
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| [-] | 1614年 | 1614 | 大坂冬の陣が勃発(月・日 不明) |
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| [-] | 1614年 | 1614 | 幸村、九度山から大坂入城。 玉造口に真田丸設ける。 |
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| [-] | 1615年 | 1615 | 幸村 家康本陣へ突撃、討死(49才) 大坂城落城。 |
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| [-] | 1616年 | 1616 | 清、成立(~1912) |
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| [-] | 1618年 | 1618 | 【三十年戦争】(さんじゅうねんせんそう、独: Dreißigjähriger Krieg, 英: Thirty Years’War)は、主にドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台として1618年から1648年にかけて戦われた宗教的・政治的諸戦争の総称[1]である。
ドイツにおけるプロテスタントとカトリックとの対立、オーストリア,スペインのハプスブルク家とフランスのブルボン家との抗争を背景とし,オーストリア領ボヘミアの新教徒が神聖ローマ帝国に対して反乱(プラハ窓外放出事件)を起こしたことに端を発した[1]。当初は皇帝=カトリック軍が優勢であったが、プロテスタント国のデンマーク、スウェーデンが参戦し、旧教国フランスが新教国スウェーデンを支持するに至り、もはや宗教戦争とは言えなくなり[1]国際的戦争となった[8]。
戦争の結果、オランダとスイスが独立し、ドイツ諸侯も独立性も強化され、神聖ローマ皇帝は名目的存在となり、ハプスブルク家は大打撃を受けた[8]。アルザス地方を獲得したフランスは大陸最強国となり、北ドイツの諸要地を獲得したスウェーデンも強国となった[1]。 |
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| [-] | 1619年 | 1619 | 【オーストリアドイツ 周辺】マティアスが死去。従弟のフェルディナント2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位
【イタリアメディチ家】
フランチェスコ1世(在位:1574年 - 1587年)は、娘マリー・ド・メディシスをフランス国王アンリ4世の2番目の王妃に据えることに成功し、息子ルイ13世を生んだ。マリーは、アンリ4世の結んだ対ハプスブルク家政略結婚の政治方針をことごとく破棄し、リシュリューを支援者として登用しようとした。成人したルイ13世は、マリーをブロワ城へ幽閉したが、1618年に三十年戦争が勃発すると、1619年にマリーは脱出して反乱したが鎮圧された。講和条約ヴェストファーレン条約が結ばれ、ヴェストファーレン体制における列強にメディチ家の名前はもはやなかった。三十年戦争からイングランドへ帰国したチャールズ1世は増税を行なってイングランド内戦を誘発し、オリヴァー・クロムウェルが台頭する。フランス・スペイン戦争が継続され、フランスとクロムウェルの派遣したイングランド共和国の連合軍は砂丘の戦いに勝利し、1659年のピレネー条約を締結した。マリーの2人の孫、ルイ14世とマリー・テレーズ・ドートリッシュが結婚し、スペインは50万エスクードを持参金としてフランスに支払った。こうしてスペインは没落し、フランスの覇権が始まった。 |
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| [-] | 1620年 | 1620 | デカルト:慣性の法則と運動量保存の法則
ある系に外力が働かない限り(閉鎖系)、その系の運動量の総和
(全運動量)は不変であるという物理法則(保存則)である。
運動量保存の法則ともいう。 |
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| [-] | 1623年 | 1623 | 徳川家光が江戸幕府三代
征夷大将軍に就任する |
【科・物】ブレーズ・パスカル 生誕
フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト
教神学者、発明家、実業家である。 神童として数多くのエピソードを残
した早熟の天才で、その才能は多分野に及んだ。ただし、短命であり、
三十代で逝去している。 |
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| [-] | 1624年 | 1624 | 魔女対策法イングランド |
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| [-] | 1625年 | 1625 | 熊本地震 |
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| [-] | 1628年 | 1628 | 踏絵の制度が始まる |
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| [-] | 1632年 | 1632 | 【ルーダン】の悪魔憑き事件 【フランスカッサンデイ】:雷電による鉄物の磁化の発見 |
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| [-] | 1635年 | 1635 | 【美術】フランス アカデミー できる
フランスの美術団体。 アカデミー・デ・ボザール。 1648年にルイ 14世のもとで画家,彫刻家,建築家のための王立美術団体として設立され,フランス美術界の最高権威を示す機関となった。 66年にはローマにアカデミア・ディ・フランチアが創設され,ローマ大賞の制定により,受賞者にローマ留学の特典が与えられた。 |
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| [-] | 1635年 | 1635 | 【参勤交代制】を確立する。 |
【美術】フランス アカデミー できるフランスの美術団体。 アカデミー・デ・ボザール。 1648年にルイ 14世のもとで画家,彫刻家,建築家のための王立美術団体として設立され,フランス美術界の最高権威を示す機関となった。 66年にはローマにアカデミア・ディ・フランチアが創設され,ローマ大賞の制定により,受賞者にローマ留学の特典が与えられた。 |
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| [-] | 1637年 | 1637 | 島原の乱天草四郎による キリシタン一揆が起こる |
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| [-] | 1639年 | 1639 | 鎖国令 |
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| [-] | 1642年 | 1642 | 【世界】イギリス 清教徒革命
画家レンブラント「夜警」(オランダ黄金時代) |
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| [-] | 1643年 | 1643 | ルイ14世がフランス王に即位 |
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| [-] | 1644年 | 1644 | 【文】松尾 芭蕉
松尾 芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房。俳号としては初め宗房を称し、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟門下。 |
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| [-] | 1644年 | 1644 | 【文】松尾 芭蕉
松尾 芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡出身。幼名は金
作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房。俳号としては
初め宗房を称し、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟門下。 |
【中国】
明朝末期、中国東北部の満州人の勢力はますます増加しました。
満州族は3世代にわたり中国を攻撃し、最終的に清王朝を樹立
しました。これは歴史上最後の帝国 |
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| [-] | 1650年 | 1650 | デカルト没 |
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| [-] | 1651年 | 1651 | 【4将軍 徳川 家綱】 |
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| [-] | 1653年 | 1653 | 【音人】1653年9月1日 パッヘルベル生誕(洗礼日)尚、有名曲カノンは制作年がわからない。 |
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| [-] | 1655年 | 1655 | 光のスペクトル実験(ニュートン) |
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| [-] | 1657年 | 1657 | 【恐】江戸の大火
山の手3箇所から出火し、両日とも北西風により延焼。江戸の大半が
被災し江戸城天守も焼失した。江戸時代最大の被害を出した大火で
あり、江戸の都市計画や消防制度に大きな影響を与えた。 |
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| [-] | 1658年 | 1658 | レオポルト1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位 |
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| [-] | 1665年 | 1665 | フェルマー没【科・物】フェルマーの小定理で有名 |
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| [-] | 1666年 | 1666 | 【科・物】ニュートン 万有引力の法則
サー・アイザック・ニュートンは、イングランドの自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者・神学者。 主な業績としてニュートン力学の確立や微積分法の発見がある。1717年に造幣局長としてニュートン比価および兌換率を定めた。
中国より「ひまわり」伝来 |
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| [-] | 1668年 | 1668 | 反射望遠鏡の発明(ニュートン) |
フランソワ・クープラン生誕
は、バロック時代のフランスの作曲家。多くの音楽家を輩出した
クープラン家の中でも特に有名な人物であり、大クープラン として
知られる。 クープランの作品の中で主要な位置を占めるのは4巻の
クラヴサン曲集であり、約220曲の小品が27のオルドル と称する
組曲を構成している。 |
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| [-] | 1669年 | 1669 | 光の微粒子説(ニュートン) |
パッヘルベル:1669年6月29日にアルトドルフ大学に入学 |
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| [-] | 1673年 | 1673 | パッヘルベル:聖シュテファン大聖堂の次席オルガニストに就任 |
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| [-] | 1677年 | 1677 | パッヘルベル:1677年アイゼナハに移る。
ヨハン・クリストフ・バッハ(1671–1721年、ヨハン・ゼバスティアン・
バッハの長兄)の家庭教師を務め、ヨハン・クリスティアン・バッハ
(1640-1682年)の家に住んでいた |
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| [-] | 1678年 | 1678 | 光の波動説(ホイヘンス) |
パッヘルベル:1678年の6月、パッヘルベルはヨハン・エフラーに代わり
エアフルトのプレディガー教会(伝道者教会)のオルガン奏者として雇
われた。エアフルトでもバッハ家は有名で、パッヘルベルと彼らとの交
友はここでも続いた。 |
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| [-] | 1680年 | 1680 | 徳川綱吉が五代将軍になる(月・日 不明) |
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| [-] | 1681年 | 1681 | パッヘルベル:エアフルト市長の娘であるバルバラ・カブラーと結婚【テレマン(後にバッハと親交がある)】テレマンは後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家で、40歳以降は北ドイツのハンブルクで活躍した。18世紀前半のドイツにおいて高い人気と名声を誇り、フランスでの人気も高かった。クラシック音楽史上もっとも多くの曲を作った作曲家として知られる。自身もヴァイオリン、 オルガン、ハープシコード、リコーダー、リュートなど多くの楽器を演奏することができ[4]、特にヴァイオリンとリコーダーについては高い技術を有する名人であった。
同時代の作曲家であったゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人で、頻繁に手紙のやり取りをしていた[5]ほか、ヨハン・ゼバスティアン・バッハとも親密な交友関係にあり、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなった[6]。また、1750年にバッハが死去した時には、バッハの業績を最大限に称える追悼の言葉を送っている[7]。 |
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| [-] | 1684年 | 1684 | パッヘルベル:J.C.バッハの未亡人から家を買い取った
銅器職人の娘[22]ユディット・ドロンマーと2度目の結婚 |
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| [-] | 1685年 | 1685 | 【音人】ヨハン・ゼバスティアン・バッハ誕生
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル誕生
ドイツ出身で、イタリアで成功した後にイギリスで長年活躍し、イギリ
スに帰化した作曲家、オルガニスト。英語ではジョージ・フレデリッ
ク・ハンドル。後期バロック音楽の著名な作曲家の一人。特にイタリア
語のオペラ・セリアや英語のオラトリオの作曲で知られ、自ら公演事業
にも携わった。 |
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| [-] | 1687年 | 1687 | 生類憐れみの令を定める。 |
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| [-] | 1688年 | 1688 | 【名誉革命】名誉革命は、1688年から1689年にかけて、ステュアート朝のイングランドで起こったクーデター事件である。イングランド国王ジェームズ2世が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世がイングランド国王に即位した。これにより「権利の章典」が発布された。 |
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| [-] | 1694年 | 1694 | パッヘルベル:バッハ家の結婚式で、ヨハンセバスチャンバッハ(9歳)
に会った可能性がある。 |
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| [-] | 1695年 | 1695 | 【バッハ】2月20日、父ヨハン・アンブロジウス・バッハが死去。両親の死後、JS バッハはオールドルフにやって来て、聖ミカエル教会のオルガニストだった 14 歳の弟ヨハン クリストフの家に住んでいました。兄のヨハン・ヤコブといとこのヨハン・エルンストと共に、当時ザクセン・ゴータ公国で非常に尊敬されていたラテン語学校に通いました。彼は学校の合唱団で歌っており、その任務には、オードルフのシュロス エーレンシュタインでの演奏と聖歌の歌が含まれます。ヨハン・クリストフの指導の下、彼はオルガンの演奏を学びました。この間、聖ミカエル教会のオルガンは徹底的にオーバーホールと修理が行われます。若いヨハン・セバスティアンは、おそらくここでオルガン製作の基礎を学んだでしょう。彼はピアノ作品(ホ長調のカプリッチョ、1704)を兄に捧げました。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1699年 | 1699 | パッヘルベル:鍵盤楽器のための6つの変奏曲『アポロンの六弦琴』を作曲 |
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| [-] | 1700年 | 1700 | 【バッハ】1700年にはオーアドルフの学校を退学して、同年3月15日に親友のゲオルク・エルトマン (1682-1736) と共にリューネブルクに移る[5]。そこで、聖ミカエル教会付属の学校[注釈 2]の給費生となり、ボーイ・ソプラノとして「朝課合唱隊」の聖歌隊員に採用される[5][6]。この15名から構成された合唱団への入団には、高い音楽的能力が必要とされ、遠くのテューリンゲンやザクセンからも応募が来るほど入団が難しかったが、バッハは自身の優れた音楽的能力によって難なく合格したと思われる[5]。入団当時バッハは既に15歳だったため入団からまもなく変声期を迎え、ボーイ・ソプラノとして歌うことは出来なくなったが、ヴァイオリン・ヴィオラや通奏低音の楽器の演奏をすることで楽団の中で活躍していた[5]。リューネブルク(ドイツ語:Lüneburg)は、ドイツのニーダーザクセン州のリューネブルク郡(英語版)の郡都。 ハンブルクの南東約50kmに位置する。 2018年12月31日の人口は7万5351人。 |
【バッハ博物館資料より】JS バッハがリューネブルクのミヒャエルシューレで合唱団員となり、ゲオルク ベームに師事。ハンブルグのヨハン・アダム・ラインケンを訪問。彼は北ドイツのオルガンの伝統に集中的に取り組んでいます。長い間、若いバッハの音楽的能力について推測することしかできませんでした。作曲家の幼少期と青年期に関する有意義な情報源の数は少なすぎました。しかし2006年、ワイマール・アンナ・アマリア図書館で北ドイツのオルガン作品のコピーが発見され、これが現存する最古のバッハの写本であることが判明した。この壮大な発見の評価により、バッハの伝記のいくつかの側面が新たな光に照らされました。よく考えられていることとは反対に、バッハは 13 歳くらいの時点ですでに非常に高い音楽的および技術的水準を備えていたに違いありません。リューネブルクとオールドルフで学生として制作したワイマールの作品には、彼の時代の最も要求の厳しいオルガン作品の 2 つが含まれています。さらに、この発見は、バッハとリューネブルクのオルガニスト、ゲオルク・ベーム (1661–1733) との個人的な関係に関する重要な情報を提供します。バッハがコピーに使用した紙はベームの所有物であるため、若いバッハは、ミヒャエリス学校での訓練中に、リューネブルクの重要なオルガン奏者および作曲家の学生または職人であった可能性があります。 https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1701年 | 1701 | (元禄14年) 赤穂事件 |
オーストリア系ハプスブルク家とフランスのルイ14世がスペインを巡って対立し、スペイン継承戦争はじまる(~1714年)プロシア王国成立現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。 |
この頃クラリネット開発される |
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| [-] | 1703年 | 1703 | 【バッハ博物館資料】JSバッハ、ヨハン・エルンスト3世公爵のプライベート・チャペルで約半年間ヴァイオリン奏者となる。ワイマールでは、宮廷オルガニストのヨハン・エフラーの助手を務めている可能性があります。7月、彼はアルンシュタットに来て、ヨハン・フリードリッヒ・ヴェンダーの新しいオルガンを新教会 (現在のバッハ教会) でテストしました。彼は後に新教会のオルガニストとしての仕事に就きました。1620 年から 1792 年にかけて、多くのバッハ家の音楽家がアルンシュタットに住み、働いていました。合計 17 人の家族がここで生まれ、8 人が結婚し、25 人が埋葬されました。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
【ヘンデル】1702年にハレ大学に入学したが、同年ハレ大聖堂のオルガニストを1年間の契約でつとめる[3][9][10]。この頃に始まったテレマンとの交友は終生続いた[3][11]。翌1703年、大聖堂との契約を満了したヘンデルは、大学を辞めてドイツの中でもオペラが盛んであった自由都市ハンブルクへ出た1703年にヘンデルはマッテゾンとともにブクステフーデの後任オルガニストになるためにリューベックに旅行しているが、ブクステフーデの娘との結婚が条件とされていると聞いて逃げ出している。2年後にバッハも同じ経験をしている |
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| [-] | 1705年 | 1705 | レオポルト1世が死去。ヨーゼフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位 |
【バッハ殴られる-剣を抜く】1705年8月4日、バッハは聖歌隊員であるガイエルスバッハに顔を殴られ、またバッハ自身も剣を抜いて応戦しようしたというものである[10]。これは、バッハが、ガイエルスバッハのファゴットを「山羊のファゴット」と嘲笑したのが原因であった[10]。 |
【バッハ博物館資料】リューベックのディートリッヒ・ブクステフーデのもとに数ヶ月滞在。バッハはこの滞在のために休暇を任意に延長し、雇用主から厳しい叱責を受けました。彼は徒歩で旅をします。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie
【ヘンデル】
1704年、借金の取り立てから逃れるためにヴァイセンフェルスに行ったカイザーに代わってヘンデルがオペラを作曲することとなった[21]。ヘンデルにとって最初のオペラとなったこの『アルミーラ』は1705年1月8日に上演され、約20回も上演される大成功を収めた[7][11][21][22][23]。 |
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| [-] | 1706年 | 1706 | 【音人】パッヘルベル死亡(1653~) |
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| [-] | 1707年 | 1707 | 宝永地震。富士山宝永大噴火(宝永山誕生) |
【大ブリテン王国成立】 |
【バッハ博物館資料】6 月、バッハはミュールハウゼンのディヴィ ブラジー教会のオルガニストに就任しました。10 月 17 日、彼はいとこのマリア バーバラとドルンハイム (アルンシュタットの近く) の教会で結婚しました。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1708年 | 1708 | 【バッハ】6月25日、バッハは突然ミュールハウゼンの市参事会に辞表を提出し、再びヴァイマルに移る。【バッハ博物館資料】1708年 2月、公会議のカンタータ「Gott ist mein König」(BWV 71)が儀式上演される。バッハの存命中に印刷された数少ない作品の1つです。その後の数年間、バッハはミュールハウゼン評議会の変更を構成するためのさらなる委員会を受け取りました。これは、帝国都市における継続的な良好な関係への言及として解釈することができます.ディヴィ ブラシイ教会のオルガンは、1708 年にバッハが設計した配置に従って、アルバート シュヴァイツァーの提案で 1950 年代に再建されました。6月、JSバッハはザクセン=ワイマール公ヴィルヘルム・エルンストとエルンスト・アウグストの宮廷で室内楽奏者とオルガニストに任命された。彼は 1717 年までここで働き、オルガンとチェンバロのための多数の作品と 30 以上のカンタータを作曲しました。彼の最も重要な仕事場であったキャッスル チャーチは、1774 年に火事に見舞われました。 |
【バッハ:キリストは死の縄目につながれたり】(Christ lag in Todes Banden)BWV4は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが1708年に作曲したと推測される、復活祭の礼拝で演奏する教会カンタータ。全8曲からなり、第1曲のシンフォニアを除く7曲全てが、マルティン・ルター作のコラールを編曲したコラール変奏曲である。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BC%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F |
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| [-] | 1709年 | 1709 | 【6将軍 徳川 家宣】 |
【ピアノ発明】1709年にイタリアのハープシコード製作者バルトロメオ・クリストフォリ(Bartolomeo Cristfori)によって発明され、彼は「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」と命名しました。 |
【バッハ博物館資料】ゲオルク・フィリップ・テレマンとの個人的な接触、作曲と楽譜の交換。バッハと彼の同僚で近くのアイゼナハで働いていたテレマンとの個人的な知人についての言及は、バッハの息子カール・フィリップ・エマヌエルとゲッティンゲンの学者でバッハの最初の伝記作家であるヨハン・ニコラウス・フォルケルとの間の書簡の中ですでに見つけることができます。しかし、長い間、バッハのワイマール創作期に 2 人の作曲家が出会ったことを証明できるオリジナルの文書を探すことはできませんでした。最後に、1980 年代に、明らかに JS バッハのペンによるテレマンのヴァイオリン協奏曲のコピーが発見されました。バッハとテレマンの関係がいかに親密であったかは、当時すでにフランクフルトで働いていたテレマンが、1714 年のカール フィリップ エマヌエル バッハの洗礼の名付け親であったという事実によっても示されます。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1710年 | 1710 | 【バッハ博物館】11 月 22 日、長男のヴィルヘルム・フリーデマンが生まれる |
【ヘンデル】
1710年、25歳のヘンデルはステッファーニの後任としてハノーファー選帝侯の宮廷楽長となったが、ハノーファーには落ち着かず、ハレで年老いた母を訪れた後、デュッセルドルフに滞在し、その年の暮には初めてロンドンを訪れた[3][32]。ここで書かれたオペラ『リナルド』は1711年2月14日に初演され、15回の上演を数える大成功となった[3][33][34]。6月にオペラのシーズンが終わるとデュッセルドルフを再び訪れた後にハノーファーに戻った[35]。 |
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| [-] | 1713年 | 1713 | 【7将軍 徳川 家継】 |
【バッハ博物館】JSバッハがヴァイセンフェルスに旅立つ。ここで、彼の最初の世俗カンタータ「私を喜ばせるのは楽しい狩りだけです」(BWV 208)が、クリスチャン・ツー・ザクセン・ヴァイセンフェルス王子の誕生日のために演奏されます。数年後、この公演に続いて、ヴァイセンフェルザー ホフでさらにゲスト コンサートが開催されました。当時は、その音楽パフォーマンスの質の高さから国境をはるかに超えて高く評価されていました。最後に、1729年、ヴァイセンフェルス公はバッハをザクセン・ヴァイセンフェルス・カペルマイスター大公のポストに任命しました。12月、バッハはハレ/ザーレ音楽監督職のオーディションに合格。しかし、彼は投稿を辞退します。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1714年 | 1714 | 【バッハ博物館】JSバッハがコンサートマスターに昇格。これに伴い、毎月新しい曲を作曲する義務があります。息子のカール・フィリップ・エマニュエルが3月8日に誕生。代父母の 1 人は Georg Philipp Telemann です。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
【ヘンデル】
1714年のアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになるが、ヘンデルは2年以上もハノーファーを留守にしていたことを咎められることなく、新国王とは良好な関係を保った[36]。 |
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| [-] | 1715年 | 1715 | 【バッハ博物館】
ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト・バッハが5月11日に生まれる。彼は後にミュージシャンにもなりましたが、作曲は生き残っていません。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1716年 | 1716 | 8将軍 徳川 吉宗 |
【文】与謝 蕪村
江戸時代中期の日本の俳人、文人画家。本姓は谷口、あるいは谷。
「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の
詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では
「宰鳥」「夜半亭」があり、画号は「春星」「謝寅」など複数ある。 |
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| [-] | 1716年 | 1716 | 【8将軍 徳川 吉宗】【文】与謝 蕪村江戸時代中期の日本の俳人、文人画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭」があり、画号は「春星」「謝寅」など複数ある。 |
【ヘンデル】
1716年にジョージ1世はハノーファーに戻り、ヘンデルも久しぶりにハノーファーを訪れている。ロンドンに戻った後の1717年には、テムズ川での王の船遊びのために『水上の音楽』が演奏された[3][37]。ロンドンのオペラはいったん下火になるが、ヘンデルは、後にシャンドス公爵となるジェイムズ・ブリッジズの住み込み作曲家として『シャンドス・アンセム』や仮面劇を作曲した[38][39]。 |
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| [-] | 1717年 | 1717 | 大岡忠相(ただすけ)を江戸町奉行に登用する |
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| [-] | 1720年 | 1720 | 【バッハ博物館資料】バッハが王子に同行したカールスバートへの旅行から戻ったとき、彼は妻のマリア・バーバラの死を知りました。彼は短い病気の後に亡くなり、すでに埋葬されています。正確な死因については何も分かっていません。秋、バッハはオーディションのためにハンブルグに旅行します。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
【ヘンデル】
1720年には貴族たちによってオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」が設立され、ヘンデルはその芸術部門の中心人物となった[40][41]。ヘンデルはアカデミーのために歌手と契約を結ぶために1719年にドイツを訪れた。バッハがヘンデルに会おうとしたと伝えるのはこの時のことだが、結局会うことはなかった[42][43]。またアカデミーのための音楽の大部分はヘンデルが作曲し、『ラダミスト』『ジューリオ・チェーザレ』『タメルラーノ』『ロデリンダ』をはじめとするオペラが上演された。アカデミーにおけるヘンデルのライバルはボノンチーニであった[44][45]。 |
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| [-] | 1721年 | 1721 | 目安箱を設置する。 |
【バッハ】:宮廷ソプラノ歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚【バッハ博物館資料】12 月 3 日、バッハは宮廷歌手のアンナ マグダレーナ ヴィルケと結婚します。わずか数日後、レオポルド王子はアンハルト ベルンブルクのフリーデリカ ヘンリエッタ王女と結婚しました。この時期にレオポルドの音楽への関心が薄れたのは、彼女のせいかもしれません。そのため、1722 年からバッハは新しいポストを探しました。 |
【バッハ:ブランデンブルク協奏曲】1721年3月24日にブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒ(英語版)に献呈された。そのためにこの名がある。 https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1722年 | 1722 | 【バッハ平均律クラヴィーア曲集】(へいきんりつクラヴィーアきょくしゅう、原題:独: Das Wohltemperirte Clavier、現代のドイツ語表記では独: Das Wohltemperierte Klavier)は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲した鍵盤楽器[1]のための作品集。1巻と2巻があり、それぞれ24の全ての調による前奏曲とフーガで構成されている。第1巻 (BWV 846〜869) は1722年、第2巻 (BWV 870〜893) は1742年に完成した。原題の"wohltemperiert(e)\"とは、鍵盤楽器があらゆる調で演奏可能となるよう「良く調整された(well-tempered)」ことを示し、本来は平均律を含む転調自由な音律を広く意味するが、和訳では「平均律」がいまだに用いられている[2]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9D%87%E5%BE%8B%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%9B%B2%E9%9B%86 |
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| [-] | 1723年 | 1723 | (バッハ)はライプツィヒの聖トーマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任する。
【ヘンデル】
1723年に王室礼拝堂作曲家に任じられていたヘンデルはジョージ1世の死の直前の1727年2月20日にイギリス国籍を取得し、ジョージ2世の戴冠式のために大規模な『戴冠式アンセム』を上演した[3]。
しかしアカデミーの経営はずさんであり、カストラートのセネジーノ、ソプラノのフランチェスカ・クッツォーニ、メゾ・ソプラノのファウスティーナ・ボルドーニという3人のスター歌手に対する高額の報酬、およびクッツォーニとファウスティーナの争いもあってロンドンのイタリア・オペラは再び衰退していった。さらに1728年に上演された『乞食オペラ』は、すでに没落していたアカデミーに最後のとどめをさし、1728年6月1日にアカデミーは倒産する[44][45]。 |
【バッハ博物館資料】1723年 2月、バッハはライプツィヒでトーマスカントールの役職のリハーサルを完了する。前年、ヨハン・クーナウの死後、ゲオルク・フィリップ・テレマンが後継者として選ばれました。しかしテレマンは収入がよかったのでハンブルグにとどまった。2巡目では、当時ダルムシュタットのカペルマイスターであったヨハン・クリストフ・グラウプナーが1位に任命された。雇用主からの承認が得られなかったため、JS バッハが 6 月 1 日からライプツィヒの新しい Thomaskantor と "音楽監督\" になりました。バッハと以前の雇用主であるレオポルド王子との関係は影響を受けていません。ケーテンを離れた後も、バッハは「カペルマイスター」の称号を使い続けることを許され、毎年王子の誕生日を祝うカンタータの作曲を依頼された。Thomaskantor としてのバッハの公務には、日曜日と祝祭日のための毎週のカンタータの演奏が含まれます。教会年ごとに約60のカンタータが必要です。息子のカール・フィリップ・エマニュエルの情報によると、バッハはそのようなカンタータを合計5曲作曲したと言われていますが、現存するのは3曲弱です。バッハの最初のライプツィヒ カンタータのほとんどすべてが現存していますが、カンタータの作者はほとんど知られていません。ワイマール時代の古い作品に頼るいくつかを除けば、最初のライプツィヒのカンタータは新しい作品です。確かにバッハは、リハーサルと時間のかかるパートの手書きコピーの両方で、年配のトーマネーズの助けを借りることができます。 https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1724年 | 1724 | 【バッハ博物館資料】
年 ライプツィヒ大学音楽監督のヨハン・ゴットリープ・ゲルナーと、パウリナー教会の音楽における権力分立について論争が始まる。
ヨハネ受難曲(BWV245)は4月7日に初演されます。
作詞家クリスチャン・フリードリッヒ・ヘンリチ、別名ピカンデルとの20年にわたる実りあるコラボレーションが始まります
。
この一連のカンタータで、バッハは、トーマスカントラテの前任者の 1 人であるヨハン シェレがすでに使用していたテクニックを採用しています。有名な福音派の賛美歌がカンタータの基礎として選ばれ、冒頭で芸術的に仕上げられています。コラールであり、中間部分のクロージングコラールでそのまま使用されますが、決定的な音楽的およびテキストの変更を受けます。中間スタンザの内容は、アリアとレチタティーヴォ形式に書き直され、コラール カンタータの古い伝統と、イタリア オペラに基づく現代のカンタータ形式を結び付けています。バッハは一貫してこの原則に固執していたため、古い素材に頼ることは禁じられていました。したがって、ライプツィヒ第 2 年のカンタータは、ほぼ完全に新しい作品です。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1725年 | 1725 | 【バッハ】
カンタータ第 3 年が書かれる |
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| [-] | 1727年 | 1727 | 【バッハ】
1727年 4 月 11 日、マタイ受難曲 (BWV 244、第 1 版) が初演される。 |
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| [-] | 1728年 | 1728 | |||||
| [-] | 1729年 | 1729 | 【バッハ】1月 ハレ滞在中のヘンデルにバッハ長男フリーデマンを派遣。ヘンデルのライプツィヒ招待を申し出たが断られた。【バッハ博物館資料】18 世紀の初めに、教会や宮廷音楽の生活と並行して、ヨーロッパのほぼすべての音楽センターでブルジョアのコンサート ビジネスが盛んになりました。初期のブルジョア音楽栽培の最も重要な機関の1つは、主にアマチュアミュージシャンで構成され、定期的にプライベートおよびパブリックコンサートを開催するCollegia Musicaアンサンブルです。1729年にバッハに引き継がれたコレギウム・ムジクムは、以前は辞任した新教会のオルガニスト、ゲオルク・バルタザール・ショットの下にあった。ライプツィヒで最大かつ最も人気のあるコーヒーハウスの経営者であるゴットフリート・ツィンマーマンのバーに本拠地を見出しました。ここでリハーサルと毎週のコンサートが行われ、夏の間は野外公演が行われました。現代の作曲家による作品に加えて、バッハは管弦楽組曲 (BWV 1066-68)、ヴァイオリンとハープシコードの協奏曲 (BWV 1041-1043 および BWV 1052-58) など、数多くの自作曲を発表しました。バッハは数多くの世俗的なカンタータを寄稿し、誕生日や名前の日などの特別な行事のために特別なコンサートも開催されました。彼の有名な「コーヒー カンタータ」 (BWV 211) は、コレギウムの邸宅を明確に暗示しています。バッハのピアノ作品のためのコレギウム ムジクムとの共同作業は特に重要でした。1717 年にケーテンに移って以来、バッハはオルガニストとしての公式な活動を行っていませんでした。カンターや音楽監督としてだけでなく、キーボードの名手としても活躍。バッハはまた、トーマスカントールとしての立場でコレギウム ムジクムの恩恵を受けることができました。ここで彼は、セント トーマス管弦楽団だけではできなかったであろう、より多くのキャストで演奏するための有能な一時的なミュージシャンを見つけたからです。 |
1729年3月から、バッハがschott’sche collegium musicumを引き継ぐ |
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| [-] | 1730年 | 1730 | 【バッハ博物館資料】
バッハは、合唱団とオーケストラに十分な資金を提供するよう市議会を説得することを目的として、10ページの提出物「整然とした教会音楽の短いが非常に必要な草稿」を書きます。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1731年 | 1731 | 八分儀の発明(ハドレー) |
【バッハ博物館資料】3 月 23 日、聖マルコ受難曲 (BWV 247) が初めて演奏される
【ヘンデル】
ジョン・ジェームズ・ハイデッガーとともにヘンデルはアカデミーを建て直し、イタリアを訪れて歌手と契約を結んでドイツ経由でロンドンに戻った[注釈 2]。再建されたアカデミーでヘンデルはオペラ『インド王ポーロ』(1731)などで成功を収めたが、1733年にはライバルの貴族オペラが設立される。貴族オペラの作曲家はニコラ・ポルポラであった[3]。さらにハイデッガーも1734年にはヘンデルと決別し、それまでアカデミーのオペラを上演していたヘイマーケット国王劇場を貴族オペラに引き渡してしまう[46]。ヘンデルはコヴェント・ガーデン劇場に移るが、貴族オペラ側はアカデミーから歌手を引き抜いた上、有名なカストラートのファリネッリを迎え、アカデミー側は苦戦をしいられた[47]。アカデミーと貴族オペラはともに1737年に倒産する[48]。
ヘンデルは同年4月に卒中に襲われ半身不随となり、温泉治療のためアーヘンで夏を過ごした。奇跡的に回復した後は、再びハイデッガーと組んでオペラ『ファラモンド』や『セルセ』(クセルクセス)などの公演を続けるが、もはやロンドンでオペラが成功することはなかった[3] |
【古典派】理性を重視する啓蒙時代を背景に[1]楽曲の均斉感と合理的な展開が重視され、ソナタ形式が発展した。また機能和声法が確立され、調性が教会旋法から独立した。この時代の代表的な楽種として、交響曲や協奏曲、ピアノソナタや弦楽四重奏曲などが盛んに作られた。古典派音楽の盛期はバロック音楽とロマン派音楽の間に位置しているが、実際には古典派音楽の始まりはバロック音楽の終焉と、古典派音楽の終わりはロマン派音楽の勃興と並行している。古典派の潮流は1730年頃にフランスのギャラント様式から始まるが[1]、バロック音楽を代表するヨハン・ゼバスティアン・バッハやゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはまだ存命、活動中であった[1]。また、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの死(1827年)をもって古典派の終わりとする考えもあるが[1]、ロマン派とされるフランツ・シューベルトやカール・マリア・フォン・ヴェーバーもほぼ同じ頃に死去している[1]。 |
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| [-] | 1732年 | 1732 | 【音人】フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 生まれる
現在のオーストリア出身の音楽家であり、古典派を代表する作曲家。また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。 数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。 |
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| [-] | 1732年 | 1732 | 【ハイドン】フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 生まれる現在のオーストリア出身の音楽家であり、古典派を代表する作曲家。また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。 数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。 サラリーマン ハイドン 高級取り・弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家・楽四重奏曲第77番(第62番)の第2楽章にも用いられた皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の旋律は、現在ドイツ国歌(ドイツの歌)に用いられている。バッハ博物館資料 |
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| [-] | 1733年 | 1733 | 【バッハ博物館資料】
バッハはミサのキリーとグロリア ロ短調 (BWV 232 I-II) をドレスデンの新しいザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト2世に贈呈 - ザクセン宮廷作曲家またはカペルマイスターの権威ある称号への期待と合わせて |
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| [-] | 1734年 | 1734 | 【バッハ博物館資料】
12 月 25 日から 1 月 6 日まで、クリスマス オラトリオ (BWV 248) の 6 部が初めて演奏される。 |
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| [-] | 1735年 | 1735 | 【バッハ博物館資料】
ヨハン・クリスチャン・バッハが9月5日に生まれる。 |
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| [-] | 1736年 | 1736 | 魔女対策法イングランド 廃案 |
【バッハ博物館資料】
バッハとトマス学校の学長であるヨハン・アウグスト・エルネスティとの間で、合唱団の監督官を任命する権限について論争が勃発した(「監督論争」)。
11月、度重なる要請の後、バッハはザクセン選帝侯とポーランド王室宮廷の宮廷作曲家に任命された。これはまた、ライプツィヒ当局との権限をめぐる論争における独自の立場を強化しますhttps://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1738年 | 1738 | 音速測定(フランス科学アカデミー) |
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| [-] | 1740年 | 1740 | カール6世が死去。マリア・テレジアがハプスブルク家の
家督を相続 |
【ハイドン】
ウィーンのシュテファン大聖堂のゲオルク・フォン・ロイター
(Georg von Reutter)に才能を認められたことから、ウィーンに
住むようになった。 |
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| [-] | 1741年 | 1741 | 【音人】ヴィヴァルディ死亡(1678~)
現在はイタリアに属するヴェネツィア出身のバロック音楽後期の著名な作曲家の一人、ヴァイオリニスト、ピエタ院の音楽教師、カトリック教会の司祭。興行師、劇場支配人でもあった。多数の協奏曲の他、室内楽、オペラ、宗教音楽等を作曲。 |
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| [-] | 1742年 | 1742 | バイエルン王カール・アルベルト、カール7世として神聖ローマ帝国の
皇帝に即位。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の地位を失う |
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| [-] | 1743年 | 1743 | マリア・テレジア、ボヘミア女王に即位 |
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| [-] | 1745年 | 1745 | 【9将軍 徳川 家重】 |
カール7世、死去。マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが神聖ローマ帝国の皇帝に即位。ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝の地位を取り戻す |
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| [-] | 1747年 | 1747 | 【バッハ博物館資料】
5 月、JS バッハがポツダムとベルリンのフリードリヒ 2 世を訪問。バッハが新聞の一面に取り上げられたのはこの時だけだった。「ベルリン・ナクリッヒテン」紙の未知の編集者が、夕方にバッハが到着したこと、国王に出迎えられたこと、いわゆる「フォルテとピアノを弾いたこと」について報じた。 « そして最後に、バッハが与えられたテーマをすぐにフーガに即興で演奏するという王の仕事 – 音楽の歴史における素晴らしい瞬間であり、有名な「音楽の捧げ物」をもたらしました。https://www.bach-leipzig.de/de/neutral/johann-sebastian-bach-%E2%80%93-eine-chronologie |
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| [-] | 1748年 | 1748 | 【バッハ】
ミサ曲ロ短調の完成 (ミサ・トータ、BWV 232) |
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| [-] | 1749年 | 1749 | 【バッハ】1749年5月末、バッハは脳卒中で倒れた。【バッハ博物館資料】バッハの健康状態は悪化し、深刻な眼病に苦しみ、右腕である筆記用の手にも運動障害がありました。 |
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| [-] | 1750年 | 1750 | 【音人】バッハ死亡(1685~)
ドイツの作曲家・音楽家である。バロック音楽の重要な作曲家の一人
で、鍵盤楽器の演奏家としても高名であり、当時から即興演奏の大家と
して知られていた。 |
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| [-] | 1755年 | 1755 | 【マリア・テレジア】は、子どもが生まれるたびごとに家族の肖像画を描かせたため、同じような構図の肖像画が子どもの数だけ存在する[1]。宮廷画家であるマッティン・ファン・メイテンス(子)が手がけた皇帝一家の肖像画は、どれもテレジアと、その夫であり神聖ローマ皇帝であるフランツ1世の2人の周囲に子どもたちが集まっている構図になっている[1]。こうした肖像画は、婚姻関係を結ぶ可能性のある友好国への贈り物として利用された[3]。本作には皇帝夫妻と12人の子どもたちが描かれており、画面中央、小さな金の椅子の後方に見える金のゆりかごに収まっている赤ちゃんが、皇女マリー・アントワネットである[1][4]。画面右側で椅子に腰かけて自らの胸を指さしているのが、当時38歳のテレジアである[5]。画面左側ではフランツ1世が、テレジアを指さしている[5]。テレジアの左手にいるのは、後のレオポルト2世である[5]。赤い礼服を着ているのは、後のヨーゼフ2世である[5]https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/51/La_famille_de_Marie-Th%C3%A9r%C3%A8se_d%27Autriche_et_Fran%C3%A7ois_de_Lorraine_en_1756.jpg |
【ハイドン22歳】おそらく1755年ごろにヴァインツァール(Schloss Weinzierl)のフュルンベルク男爵に招かれ、ここで最初の弦楽四重奏曲を作曲したという |
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| [-] | 1756年 | 1756 | 【音人】モーツアルト誕生
主に現在のオーストリアを活動拠点とした音楽家。 洗礼名はヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]。 |
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| [-] | 1757年 | 1757 | 【ハイドン】
ボヘミアのルカヴィツェ(Dolní Lukavice)に住むカール・モルツィン伯爵(Karl von Morzin)の宮廷楽長の職に就いた |
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| [-] | 1759年 | 1759 | 【音人】ヘンデル死亡(1685~) |
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| [-] | 1760年 | 1760 | 【10将軍 徳川 家治】 |
【ハイドン】マリア・アンナ・ケラー(Maria Anna Keller)と結婚 |
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| [-] | 1761年 | 1761 | 【モーツアルト】現存する最古の作品が作曲される (アンダンテ ハ長調 K.1a)。 |
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| [-] | 1762年 | 1762 | 【モーツアルト】1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはそのとき手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(のちのマリー・アントワネット)に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。 |
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| [-] | 1763年 | 1763 | 【文】小林 一茶日本の俳人。本名は小林弥太郎、一茶とは俳号である。別号は圯橋、菊明、新羅坊、亜堂。庵号は二六庵、俳諧寺。 信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。 |
【7年戦争終結】 |
【ハイドン】1763年に父が没し、ハイドンは弟のヨハンを引き取っている。ヨハンはエステルハージ家でテノール歌手をつとめた【モーツアルト】7歳のときフランクフルトで演奏した際に作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったとのちに回想している[6]。 |
モーツァルト家大旅行開始1763年7月〜1766年11月 |
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| [-] | 1765年 | 1765 | 【ワットの蒸気機関】フランツ・シュテファンが死去。【ヨーゼフ2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位】 |
【♪モーツァルト:交響曲第4番 ニ長調 K. 19 】(1765)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC4%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)【♪:モーツァルト:交響曲 ヘ長調 K. 19a(】1765 1981年にミュンヘンで再発見)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2K.19a【♪モーツァルト:交響曲 ハ長調 K. 19b (1765 散逸)】【♪モーツアルト:交響曲第5番 変ロ長調 K. 22 】(1765)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88) |
【ヨーゼフ2世】 神聖ローマ皇帝に即位 |
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| [-] | 1766年 | 1766 | 【科・物】水素発見される |
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| [-] | 1766年 | 1766 | 【科・物】水素発見される「ヘンリー・キャヴェンディッシュ」 |
【♪モーツァルト:交響曲 ト長調 K. 45a『旧ランバッハ』(1766)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2K.45a |
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| [-] | 1769年 | 1769 | 【モーツアルト】1769年から1771年にかけて第1回目のイタリア旅行を行い、父とともにミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてからまもない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている[注釈 3]。イタリア旅行は3度に及ぶが、中でも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた[7]。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88
【♪モーツァルト:交響曲第9番 ハ長調 K. 73 (1769)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC9%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88) |
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| [-] | 1770年 | 1770 | 【科・物】酸素発見される |
【音人】ルードウィヒ・ファン・ベートーヴェン誕生
ドイツの作曲家、ピアニスト。音楽史において極めて重要な作曲家の一
人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集
大成かつロマン派音楽の先駆とされ、後世の音楽家たちに多大な影響を
与えた |
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| [-] | 1772年 | 1772 | 【恐】江戸の大火目黒行人坂大円寺から出火し、南西風により延焼。焼失した町904。 |
第一次ポーランド分割。 |
【♪モーツァルト:交響曲第15番 ト長調 K. 124 】(1772)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC15%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)【♪モーツァルト:交響曲第16番 ハ長調 K. 128 】(1772)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC16%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)【♪モーツァルト:交響曲第17番 ト長調 K. 129 】(1772)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC17%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)【♪モーツァルト:交響曲第18番 ヘ長調 K. 130 】(1772)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC18%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)【♪モーツァルト:交響曲第19番 変ホ長調 K. 132 】(1772)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC19%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)【♪モーツァルト:交響曲第20番 ニ長調 K. 133 (1772)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC20%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)【♪モーツァルト:交響曲第21番 イ長調 K. 134 (1772)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC21%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)
【ザルツブルク大司教】・ヒエロニュムス・コロレドが就く |
モーツァルトがディベルティメントK136を書いたのは、この歳か・・・ 断定はできないが。 |
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| [-] | 1773年 | 1773 | 7月21日 - ローマ教皇クレメンス14世によってイエズス会の解散が命ぜられる。 |
【♪モーツァルト:交響曲第22番 ハ長調 K. 162 (1773)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC22%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)
【♪モーツァルト:交響曲第23番 ニ長調 K. 181(K6. 162b) (1773)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC23%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)
【♪モーツァルト:交響曲第24番 変ロ長調 K. 182(K6. 173dA) (1773)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC24%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)
【♪モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K. 183(K6. 173dB) (1773 K. 550と比較して「小ト短調」とも呼ばれる)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC25%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)
【♪モーツァルト:交響曲第26番 変ホ長調 K. 184(K6. 166a) (1773)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC26%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)
【♪モーツァルト:交響曲第27番 ト長調 K. 199(K6. 161b) (1773)】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC27%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88) |
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| [-] | 1774年 | 1774 | 『解体新書』翻訳(前野良沢、杉田玄白) |
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| [-] | 1776年 | 1776 | 【世界】アメリカ独立宣言 |
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| [-] | 1777年 | 1777 | 【モーツアルト】1777年にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。同年10月、パリに行く途中にアウクスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、このとき、2人は互いに惹かれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った[9]。マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だったマンハイム楽派の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた[10]。
【長期休暇願い】旅行のため、レオポルトは同行を望み、ヒエロニムス・コロレド伯に休職願を出す。却下される。(結局母が同行) |
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| [-] | 1780年 | 1780 | 【音楽】ロマン派音楽
文学・美術・哲学のロマン主義運動と関連しているが、音楽以外の芸術分野でロマン主義が1780年代から1840年代まで続いたのに対し、音楽学で慣習的に使われている「ロマン主義の時代」は、それとは異なり、古典派音楽の時代と近代・現代音楽の間に挟み込まれている。従って、ロマン派音楽は、だいたい1800年代初頭から1900年代まで続いたとされている。 |
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| [-] | 1780年 | 1780 | 【産業革命】1780年ごろから1840年ごろにかけてイギリスは綿工業を中心にして、 短期間のうちに工業化が進んでいく。やがてイギリスは世界の工場として君臨することになる。【マリア・テレジア、死去】【小氷期】アメリカ、冬にニューヨーク湾が凍結。→小氷期。【マリア・テレジア崩御】 |
【ハイドン48歳】1780年ごろにはエステルハージ家の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家以外のために書いた曲の比率が増していった。 |
【モーツァルト オペラ イドメネオ】〜81 |
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| [-] | 1781年 | 1781 | ウィリアム・ハーシェルにより天王星が発見される。 |
【モーツアルト】1781年3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教・ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、5月9日、コロレドと衝突し解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていた。 |
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| [-] | 1782年 | 1782 | 【モーツアルト】
翌1782年、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、歌劇『魔弾の射手』等の作曲で知られるカール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。 |
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| [-] | 1783年 | 1783 | 【恐】浅間山大爆発 |
【科・物】オイラー没 オイラーの定理で有名 |
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| [-] | 1784年 | 1784 | 蝦夷地開拓を企図し、調査させる。 |
【ハイドンと出会う(ウィーン)】モーツァルトがウィーンでハイドンと出会う |
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| [-] | 1785年 | 1785 | 【モーツアルト】
1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「ハイドン・セット」)。2月に父・レオポルトがウィーン訪問した際には、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、ハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。ハイドンは「もし有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した[12]。 |
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| [-] | 1786年 | 1786 | 田沼意次、老中を解任される。 |
【モーツアルト】1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。4月にはベートーヴェンがモーツァルトを訪ねたとされるが記録はない。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとる。しかしこのころから借金依頼を頻繁に行う。 |
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| [-] | 1787年 | 1787 | 【11将軍 徳川 家斉】 |
【モーツアルト】1787年5月28日に父レオポルト死去。父という文通相手を喪ったため、以降のモーツァルトの書簡は激減し、晩年については不明な点が今日でも多い(現存する晩年の書簡の大半は妻コンスタンツェか、借金相手のヨハン・プフベルク宛のものである)。8月10日、ウィーンで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を作曲。【『ドン・ジョヴァンニ』を初演】10月 - モーツァルト、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』を初演。
アイネクライネナハトムジーク作曲(8月) |
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| [-] | 1788年 | 1788 | (天明8年) 京都天明の大火、皇居炎上する。 |
【ロシア・スウェーデン戦争 】(-1790年) |
【モーツアルト】翌1788年にはいわゆる「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲する。しかし、第40番を除いて演奏を聴くことはなかったと見られる。さらに、フリーメイソン仲間のヨハン・プフベルクからの借金が増えてくる。 |
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| [-] | 1789年 | 1789 | 【フランス革命勃発】1789年(7/14日から)のフランス革命は、ハプスブルク家に衝撃を与えた。ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑はハプスブルク家に脅威を与え、プロイセンとともにフランスに出兵する(フランス革命戦争)。しかし革命政府軍に敗れるなど失態を演じ、さらにナポレオン・ボナパルトの台頭を許し、やがて全ヨーロッパがナポレオン戦争の災禍に呑み込まれて行く動乱の時代に突入する。【ジョージ・ワシントン】4月30日 - ジョージ・ワシントン、アメリカ合衆国初代大統領に就任。 |
【モーツアルト晩年】ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に恐れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする臆説もある。 |
【ベルリンへの旅】カール・リヒノフスキー王子が(パトロン/借金もかなりあった。後に訴えられる)1789年4月8日に出発した。 |
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| [-] | 1790年 | 1790 | 【メートル法】【ヨーゼフ2世が死去。】1765~2月20日まで。【レオポルト2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位】 |
【モーツアルト】1790年1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』 K.588を初演する。2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世が即位する。モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調 K.537「戴冠式」、同19番ヘ長調 K.459「第二戴冠式」などを演奏するも聴衆は不入りだった。 |
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| [-] | 1791年 | 1791 | 【モーツアルト】1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなった。7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ 『皇帝ティートの慈悲』 K.621を初演。9月30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール 『魔笛』 K.620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演のときにはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。体調は11月から悪化し、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分にウィーンで死去した。35歳没。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。【モーツアルト死因】症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ性炎症熱」であったと考えられている[注釈 9]。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹患したとされている[注釈 10]。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。モーツァルトは1791年7月に、自分がアクア・トファーナ(別名ナポリ水とも呼ばれた亜砒酸が主要成分の水溶液で、当時の美顔、美白薬だが毒としても有名だった)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関する噂が一気に広まった。また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。1820年ごろになると、ウィーンでは「ロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは1825年に死ぬまで悩まされた[注釈 11]。 |
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| [-] | 1792年 | 1792 | 1792 |
レオポルト2世が死去。フランツ2世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位 |
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| [-] | 1793年 | 1793 | マリー・アントワネット没(生1755)夫ルイ16世 処刑される |
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| [-] | 1798年 | 1798 | (寛政10年) 本居宣長、『古事記伝』を完成させる。最上徳内と近藤重蔵が択捉島探検。 |
1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立 |
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| [-] | 1799年 | 1799 | 【電池の発明(ボルタ)】1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。 ナポレオン側近のみを連れ単身フランス本土へ舞い戻った。フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。11月、ナポレオンはブルジョワジーの意向を受けたエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメール18日のクーデタを起こし、統領政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。 |
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| [-] | 1800年 | 1800 | 【赤外線の発見】(ウイリアム・ハーシェル)【ナポレオン イタリア奪還のため、1800年6月14日のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に劇的に勝利】 |
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| [-] | 1804年 | 1804 | 【世界】ナポレオン皇帝が即位 |
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| [-] | 1805年 | 1805 | 【11月13日、フランス軍がウィーンを占領 】 10月のウルムの戦役でオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オーストリアのフランツ1世の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン1世の即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。このアウステルリッツの戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、12月にフランスとオーストリアの間でプレスブルク条約が結ばれ、フランスへの多額の賠償金支払いと領土の割譲などが取り決められ、第三次対仏大同盟は崩壊した。 |
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| [-] | 1806年 | 1806 | 【恐】江戸の大火
芝車町から出火し、南西風により延焼。焼失した町530・大名屋敷
80・
寺社80。 |
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| [-] | 1806年 | 1806 | 【恐】江戸の大火芝車町から出火し、南西風により延焼。焼失した町530・大名屋敷80・寺社80。 |
ドイツ諸侯がナポレオンの保護下に「ライン同盟」を結成し、神聖ローマ帝国が消滅 |
ベートーヴェン交響曲第4番 |
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| [-] | 1808年 | 1808 | 1808 |
【音人】ベートーヴェン運命 初演ウイーン |
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| [-] | 1809年 | 1809 | フランス軍が再びウィーンを占領 |
【音人】ハイドン没(ウィーン)【2/3日フェリックス・メンデルスゾーン生誕】 |
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| [-] | 1810年 | 1810 | 【音人】ロベルト・アレクサンダー・シューマン 生誕
ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。ドイツ語発音: に基づきローベルト・シューマンと表記されることもある。 ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した。 とくにピアノ曲と歌曲において評価が高
い。
【音人】フレデリック・フランソワ・ショパン生誕
ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるようになった。 |
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| [-] | 1810年 | 1810 | 【音人】ロベルト・アレクサンダー・シューマン 生誕ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。ドイツ語発音: に基づきローベルト・シューマンと表記されることもある。 ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した。 とくにピアノ曲と歌曲において評価が高い。【音人】フレデリック・フランソワ・ショパン生誕ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるようになった。0歳:ワルシャワ公国中央のジェラゾヴァ・ヴォラに生まれる。 |
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| [-] | 1811年 | 1811 | 【音人】フランツ・リスト、生誕
もしくはリスト・フェレンツは、ハンガリー王国出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、曲家。 |
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| [-] | 1812年 | 1812 | ナポレオン、モスクワ遠征に失敗 |
ベートーヴェン交響曲第7番 |
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| [-] | 1813年 | 1813 | 「ライプツィヒの戦い」でオーストリアをはじめとする同盟軍が
フランス軍に勝利 |
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| [-] | 1814年 | 1814 | (文化11年) 曲亭馬琴、『南総里見八犬伝』を発表。 |
ナポレオン、退位してエルバ島に流される |
ベートーヴェン交響曲第8番初演 |
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| [-] | 1815年 | 1815 | ナポレオン、エルバ島を脱出して再びフランス皇帝に即位
「ワーテルローの戦い」で同盟軍がフランス軍に勝利。
ナポレオンは再び退位してセント・ヘレナ島に流される |
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| [-] | 1819年 | 1819 | 【音人】クラーラ・ヨゼフィーネ・シューマン 誕生
ドイツのピアニスト、作曲家。ピアノ教師フリードリヒ・ヴィーク の次女として生まれる。19世紀に活躍した女性ピアニストであり、また作曲家ロベルト・シューマンの妻としても広く知られている。 |
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| [-] | 1819年 | 1819 | 【音人】クラーラ・ヨゼフィーネ・シューマン 誕生
ドイツのピアニスト、作曲家。ピアノ教師フリードリヒ・ヴィーク の次女として生まれる。19世紀に活躍した女性ピアニストであり、また作曲家ロベルト・シューマンの妻としても広く知られている。 |
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| [-] | 1821年 | 1821 | 【世界】ナポレオン51歳で死亡(流刑先セントヘレナ島) |
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| [-] | 1825年 | 1825 | 機関車の発明?? |
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| [-] | 1827年 | 1827 | 【科・物】オーム:オームの法則発見 |
【音人】ベートーヴェン死亡(1770~) |
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| [-] | 1828年 | 1828 | 【音人】シューベルト死亡(1797~)
【音楽】ベーゼンドルファー
1828年、オーストリア・ウィーンにてイグナーツ・ベーゼンドルファーにより創業された。以来、各国の帝室や王室の御用達として選定された
り、産業博覧会で入賞したりするなど、名声を高めていく。 |
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| [-] | 1829年 | 1829 | 【音楽】ロッシーニ
(オペラ)ウィリアム・テル序曲(ギヨーム・テル)作曲 |
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| [-] | 1829年 | 1829 | 【音楽】ロッシーニ(オペラ)ウィリアム・テル序曲(ギヨーム・テル)作曲
【ショパン】
19歳:ワルシャワ音楽院を首席で卒業。ウィーンで演奏会を開く。 |
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| [-] | 1833年 | 1833 | 歌川広重、『東海道五十三次』を発表。 |
【音人】ヨハネス・ブラームス
19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者。J.S.バッハ、ベートーヴェンと共に、ドイツ音楽における三大Bとも称される。ハンブルクに生まれ、ウィーンに没する。作風は概してロマン派音楽に属するが、古典主義的な形式美を尊重する傾向も強い。 |
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| [-] | 1834年 | 1834 | (天保5年) 水野忠邦、老中となる。 |
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| [-] | 1835年 | 1835 | フランツ1世、死去。フェルディナント1世がオーストリア帝国の皇帝として即位 |
【ショパン】
25歳:カルロヴィ・ヴァリで両親と最後の再会。マリア・ヴォジンスカとも再会。 |
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| [-] | 1836年 | 1836 | 【恐】天保の大飢饉 |
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| [-] | 1837年 | 1837 | 【12将軍 徳川 家慶】大塩平八郎の乱 |
【ショパン】
27歳:マリアとの婚約が破棄される。 |
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| [-] | 1838年 | 1838 | 【宗教】天理教設立 |
【ショパン】
28歳:サンドとの交際が始まる。マヨルカ島に滞在。 |
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| [-] | 1840年 | 1840 | 【世界】清・イギリス間にアヘン戦争 |
【音人】ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー生誕
ロシアの作曲家。 叙情的で流麗、メランコリックな旋律と和声、華やかで効果的なオーケストレーションなどから、クラシック音楽の中でも人気の高い作曲家となっている。またリズムの扱いについても天才的であると評されている。曲想はメルヘンチックであり、ロマン濃厚な表情が見られる。 |
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| [-] | 1842年 | 1842 | ドップラー効果(ドップラー) |
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| [-] | 1846年 | 1846 | 【音楽】ショパン 舟歌
アントン・シンドラー:ベートーヴェンに関する貴重な資料を大量に保管していたが、1846年にはそれら(137冊の筆談用ノート「会話帳」を含む)をプロイセン王国のベルリン王立図書館(のちのベルリン州立図書館)に売却した。 |
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| [-] | 1847年 | 1847 | 【音人】メンデルスゾーン死亡(1809~) |
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| [-] | 1848年 | 1848 | 3月、ウィーンで「三月革命」が勃発12月、フランツ・ヨーゼフがオーストリア帝国の皇帝に即位 |
【ショパン】38歳:2月26日、パリでの最後の演奏会。イギリスへ演奏旅行。1848年10月の暮れ、ウィシュツジニスキ医師の家で[注 84]、ショパンは最後の遺言をしたためた。「万一私がどこかで急死するようなことになったら、将来私の原稿は処分等がなされるように」と友人のヴォイチェフ・グジマワに宛てて書き送っている。スコットランドの寒い午後、スターリング嬢の城の中でショパンは母や姉と共にいる空想にふけり、祖国の地で民謡を題材とした自作曲を演奏する自分の姿を眼前に思い浮かべていた[43]。1848年11月16日、彼はロンドンのギルドホール[注 85]の演奏段上で最後の公開演奏を行った。それはポーランドの避難民の慈善演奏会だったが、彼の最後の愛国的行動となった[14]。この時の彼の出演は善意からの失敗となってしまった。ほとんどの参加者はショパンのピアノ芸術よりもダンスや気晴らしを目的としており、ショパンはそれによって多大な労力を割いて身体的不快感を負ってしまったのである[50]。
11月の終わりにショパンはパリへ戻った[43]。イギリス旅行はロンドンでのヴィクトリア女王の御前演奏など成功したものだったが、日程の厳しさから彼は体調を更に悪化させていた[1]。冬の間、彼は絶え間なく病に苦しんでいたが、それでも友人に会うことを続け、病床のアダム・ミツキエヴィチを見舞ってピアノ演奏で彼の神経を和らげた。ショパンにはレッスンを行う体力はもはやなかったが、作曲への熱意は冷めていなかった。生活必要経費の大半と医師の診察代を払う金も不足するようになり、彼は価値のある家具や所有物を売り払わなければならなくなった[43]。 |
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| [-] | 1849年 | 1849 | 【音人】ショパン死亡(1810~) |
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| [-] | 1851年 | 1851 | 【Brahms - Scherzo】 in C minor from the FAE sonataブラームス :スケルツォ Op.4 変ホ短調 ブラームスが18歳のときに作曲した、唯一の独立したスケルツォである。ちょうど彼が作曲活動に力をいれはじめた頃の、初期のピアノ作品。1851年8月ハンブルクで完成、1854年2月に出版された。ブラームス生前に出版された作品のなかでは、記念すべき第一作目にあたる。ブラームスはシューマンを訪問する前に、ヴァイマルのリストのもとを訪れていて、そのときに持参した自作の曲の楽譜のなかにこのスケルツォも含まれていた。リストが、その自筆譜を、初見で演奏して、ブラームスを感嘆させたというエピソードが知られている。この曲の第一主題は、ショパンの『スケルツォ第一番』の主題にかなり似ており、このことはリストからも、指摘された。しかし、当時ブラームスはショパンの曲を何も知らなかったという。ただしブラームスの師マルクスゼンがショパンの音楽に親しんでいたことは事実である。また、この曲はハインリヒ・マルシュナーのオペラ《ハンス・ハイリング》の序曲からの引用も指摘されている。曲は2つのトリオをもつA-B-A-C-Aといったロンドふうの構成をとる。楽譜は、ブラームスの友人、ピアニストのヴェンツェルに献呈された。執筆者: 和田 真由子https://enc.piano.or.jp/musics/208 |
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| [-] | 1853年 | 1853 | アメリカのペリーが浦賀に来航する
13将軍 徳川 家定 |
【音楽】スタインウェイ・アンド・サンズ
(英: Steinway & Sons、通称: スタインウェイ)は、1853年にアメリカ合衆国ニューヨークでドイツ人ピアノ製作者ハインリッヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク(後のヘンリー・E・スタインウェイ)によって設立されたピアノ製造会社である |
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| [-] | 1854年 | 1854 | 日米和親条約調印(下田・箱館の開港)
日英和親条約調印(長崎・箱館の開港)
安政東海地震、安政南海地震 |
ルイ・ヴィトン創業 |
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| [-] | 1855年 | 1855 | (安政2年) 安政江戸地震(安政の大地震)
日露和親条約調印。 |
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| [-] | 1856年 | 1856 | 【科・物】ニコラ・テスラ 技師、発明家である。
グラーツ工科大学で学んだあと1881年にブダペストの電信(電話)会社に入社し技師として勤務[1]。1884年にアメリカに渡りエジソンのもとで働くが1年後独立[1]。1887年にTesla Electric Light and Manufacturingを設立[1]。新型の交流電動機を開発・製作[1]、1891年
にはテスラ変圧器(テスラコイル。変圧器の一種だが、きわめて高い電圧を発生させるもので空中放電の派手なデモンストレーションの印象で今にいたるまで広く知られているもの)を発明[1]。また回転界磁型の電動機から発電機を作り上げ、1895年にはそれらの発明をナイアガラの滝発電所からの送電に応用し高電圧を発生させ効率の高い電力輸送を実現させた |
【音人】シューマン死亡(1810~)
ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。ドイツ語発音: に基づきローベルト・シューマンと表記されることもある。 ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した。 とくにピアノ曲と歌曲において評価が高い。 |
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| [-] | 1858年 | 1858 | 【14将軍 徳川 家定】南紀派の井伊直弼、大老となる。- 1859年(安政6年) 安政の大獄 |
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| [-] | 1859年 | 1859 | 【科・物】ダーウイン 種の起源【宗教】金光教 赤沢文治 |
【グノーのアヴェ・マリア(ラテン語:Ave Maria)】は、1859年にシャルル・グノーがヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集 第1巻》の「前奏曲 第1番 ハ長調 BWV 846」を伴奏に、ラテン語の聖句「アヴェ・マリア」を歌詞に用いて完成させた声楽曲である。19世紀フランスの歌曲では、しばしば演奏されており、録音される機会も多い。また、チェロやヴァイオリンとピアノのための二重奏曲として編曲されて演奏されている。 |
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| [-] | 1860年 | 1860 | 桜田門外の変、
水戸浪士らが井伊直弼を暗殺する |
【音楽】端唄・うたざわ・小唄
江戸時代後期の江戸では、歌舞伎舞踊などを通じて
劇場音楽に親しんだ観客層が自ら演奏を楽しむようになります。
三味線が爆発的に流行するとともに三味線と唄を習う人が増え、
同好の士で集まったり、宴席の座興に披露したりするなど、
武家や町人に広まりました。 |
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| [-] | 1861年 | 1861 | 【世界】アメリカ南北戦争(~1865) |
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| [-] | 1862年 | 1862 | 寺田屋騒動
生麦事件 |
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| [-] | 1864年 | 1864 | 池田屋事件
1864年(元治元年) 第一次長州征討 |
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| [-] | 1866年 | 1866 | 【15将軍 徳川 慶喜】坂本龍馬の斡旋により薩長同盟締結。 |
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| [-] | 1867年 | 1867 | 大政奉還、十五代将軍
徳川慶喜が政権を返上する |
【文】正岡 子規
日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規。幼名は処之助で、のちに升と改めた。 俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人である。 |
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| [-] | 明治1年 | 1868 | 9月、明治と改元される(日 不明) |
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| [-] | 明治2年 | 1869 | 【世界】スエズ運河が開通 |
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| [-] | 明治2年 | 1869 | 【音人】ベルリオーズ死亡(1803~)
ルイ・エクトル・ベルリオーズは、『幻想交響曲』でよく知られているフランスのロマン派音楽の作曲家である。この他に『死者のための大ミサ曲』にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。 ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていた。s |
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| [-] | 明治4年 | 1871 | ドイツ帝国成立 |
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| [-] | 明治6年 | 1873 | ウィーン万国博覧会開催 |
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| [-] | 明治12年 | 1879 | 【科・物】アルベルト・アインシュタイン
1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者である。特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボーズ=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。
それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞した。 |
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| [-] | 明治13年 | 1880 | 国会期成同盟が結成される。君が代に曲がつけられる |
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| [-] | 明治14年 | 1881 | 【音人】ムソルグスキー死亡(1839~) |
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| [-] | 明治15年 | 1882 | 【宗教】御嶽教 平山省斎が初代管長 |
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| [-] | 明治16年 | 1883 | 【音楽】ワーグナー死亡(1813~) |
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| [-] | 明治19年 | 1886 | 【音人】リスト死亡(1811~)
【音楽】グリーグ :抒情小品集 第3集 Op.43作曲出版
この第3集の内容は自然を主題にしている
1.蝶々 / op.43-1 "Sommerfugl"
2.孤独なさすらい人
3.故郷にて
4.小鳥
5.愛の歌
6.春に寄す |
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| [-] | 明治22年 | 1889 | 大日本帝国憲法が発布される(月・日 不明) |
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| [-] | 明治26年 | 1893 | 【音人】チャイコフスキー死亡(1840~)
【音楽】ブラームス:6つの小品 (ブラームス) ピアノ小品集
存命のうちに出版された。第2が有名 |
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| [-] | 明治27年 | 1894 | 日清戦争が起こる(月・日 不明) |
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| [-] | 明治28年 | 1895 | ドイツのレントゲンがⅩ線を発見 |
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| [-] | 明治29年 | 1896 | 【恐】明治三陸地震(6/15岩手県釜石市) |
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| [-] | 明治30年 | 1897 | 【音人】ブラームス死亡(1833~)
【音楽】日本楽器製造(現ヤマハ)創業 |
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| [-] | 明治33年 | 1900 | 【科・物】プランク 量子仮説 |
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| [-] | 明治36年 | 1903 | キューリー夫人:ノーベル物理学賞受賞 |
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| [-] | 明治37年 | 1904 | フレミングが真空管2極管を発明 |
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| [-] | 明治38年 | 1905 | 日本海海戦。ポーツマス条約。 |
【科・物】アインシュタイン
特殊相対性理論(光速度不変の原理など) |
【音楽】ドビッシー 交響詩「海」を完成
(第3集 有名な 月の光) |
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| [-] | 明治42年 | 1909 | 伊藤博文 暗殺 |
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| [-] | 明治43年 | 1910 | 【音楽】ストラビンスキー 火の鳥作曲 〜45年あたりまで
イーゴリ・ストラヴィンスキーが作曲したロシアの民話に基づく1幕2場のバレエ音楽、およびそれに基づくバレエ作品。音楽はアンドレイ・リムスキー=コルサコフに献呈された。 オリジナルのバレエ音楽と3種類の組曲があり、オーケストレーションが大幅に異なる。組曲版では一部曲名が異なる部分もある。 |
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| [-] | 明治44年 | 1911 | 【音楽】日本最古のオーケストラ
1911年に誕生した「いとう呉服店(現大丸松坂屋)少年音楽隊」をルーツとする東京フィルハーモニー交響楽団。 現存している日本最古のオーケストラであるその歴史は、まさに日本の西洋音楽史そのものといっても過言ではない。
約150名の楽員数は日本では最多、コンサートオーケストラとしては世界的にも異例の規模を誇る。 |
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| [-] | 大正1年 | 1912 | 【音楽】日本最古Jazzバンド ハタノ・オーケストラ
軽音楽を外国航路の汽船で演奏を行っていた
波多野バンドが始まりである。 |
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| [-] | 大正2年 | 1913 | 【音楽】『春の祭典』
ロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーが、セルゲイ・ディアギレフが率いるバレエ・リュスのために作曲したバレエ音楽。1913年に完成し、同年5月29日に初演された。 |
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| [-] | 大正3年 | 1914 | 第一次世界大戦勃発 |
大正デモクラシー
日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政
治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、
風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954
年)がこの言葉の初出である。 |
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| [-] | 大正4年 | 1915 | 【科・物】アインシュタイン 一般相対性理論 |
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| [-] | 大正5年 | 1916 | フランツ・ヨーゼフ、死去。カール1世がオーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝に即位 |
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| [-] | 大正6年 | 1917 | ロシア革命によりロマノフ王朝終焉、ソビエト政権樹立 |
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| [-] | 大正7年 | 1918 | 【音人】ドビュッシー死亡(1862~)大腸癌
フランスの作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれ
ることのない自由な和声法などを用いて作曲し、その伝統から外れた音
階と和声の用い方から、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力
を持った作曲家の一人である。 |
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| [-] | 大正9年 | 1920 | 【世界】禁酒法(アメリカ) |
【宗】霊友会設立 |
【音楽】民謡ブーム~昭和初期ごろまで 日本各地で。
・東京音頭
・武田節
・ちゃっきり節 など |
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| [-] | 昭和1年 | 1926 | |||||
| [-] | 昭和1年 | 1926 | 大正天皇崩
昭和へと改元(日 不明) |
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| [-] | 昭和2年 | 1927 | 【音楽】河合楽器 河合小市が日本楽器製造(現ヤマハ)から独立 設立 |
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| [-] | 昭和5年 | 1930 | 【宗】創価学会設立 |
【音楽】シンセサイザーの基本が整う |
静子生まれる |
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| [-] | 昭和6年 | 1931 | 嶋田萬蔵 死去 |
||||
| [-] | 昭和7年 | 1932 | 3月1日満洲国建国 溥儀が執政に就任 |
この年が里子さんの誕生年だったか? |
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| [-] | 昭和11年 | 1936 | 二・二六事件 |
||||
| [-] | 昭和13年 | 1938 | 【宗】立正佼成会設立 |
||||
| [-] | 昭和14年 | 1939 | 第二次世界大戦勃発(月日不明) |
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| [-] | 昭和15年 | 1940 | 【音楽】李香蘭 支那の夜(映画)6月封切り
劇中の挿入歌「蘇州夜曲」は有名 |
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| [-] | 昭和18年 | 1943 | 嶋田萬蔵 妻さく 死去 |
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| [-] | 昭和19年 | 1944 | 【音楽】シャミナード・セシル(ピアノ演奏家・作曲家)没(生1857)
女性初の職業作曲家 |
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| [-] | 昭和20年 | 1945 | 3月10日 東京大空襲
4月 アメリカ軍沖縄上陸
5月 ドイツが降伏
7月 ポツダム宣言
8月6日 広島に原爆投下
8月8日 ソ連が対日宣戦を布告
8月9日 長崎に原爆投下
>> 原爆投下
8月15日 ポツダム宣言受諾
8月15日 太平洋戦争終結
9月2日 第二次世界大戦終結
選挙法改正
労働組合法制定
国際連合設設置 |
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| [-] | 昭和20年 | 1945 | ヒトラー死亡(ベルリン) |
||||
| [-] | 昭和22年 | 1947 | 【科・物】ベル研究所トランジスタ研究 |
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| [-] | 昭和25年 | 1950 | 朝鮮戦争勃発(1953年7月27日休戦) |
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| [-] | 昭和28年 | 1953 | 【音楽】プロコフィエフ死亡(1891~) |
兵一 次女 ちか 死去 |
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| [-] | 昭和29年 | 1954 | 【音楽】鈴木楽器 創業 |
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| [-] | 昭和33年 | 1958 | 東京タワー完成 |
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| [-] | 昭和34年 | 1959 | 伊勢湾台風(9月26日) |
正夫生まれる8/23 |
0 | ||
| [-] | 昭和35年 | 1960 | 日米新安全保障条約
カラーテレビ放送開始
ベトナム戦争(~1975年) |
フランス文化省が設立
マルローは、ド・ゴール政権下1969 年まで10年フランス全土で
すべての人が芸術文化に親しめるようにする「文化の民主化」政策
により芸術文化の全国的な普及を図った。
【音楽】佼成吹奏楽団 設立 後の「東京佼成ウインドオーケストラ」 |
0 | ||
| [-] | 昭和37年 | 1962 | 兵一 妻 たきじ 死去 |
3 | |||
| [-] | 昭和38年 | 1963 | 第14回NHK紅白歌合戦81%
プロレス(WWA 世界選手権・デストロイヤー×力道山)64% |
奈美誕生日 |
3 | ||
| [-] | 昭和39年 | 1964 | 東京オリンピック開催 |
東京オリンピック大会(女子バレー・日本×ソ連 ほか)66% |
4 | ||
| [-] | 昭和41年 | 1966 | ビートルズ来日 |
【音楽】ビートルズ
1966年6月29日、ビートルズを乗せた飛行機は台風の影響でフライトが遅
れ、午前3時40分に東京・羽田空港に到着した。当時、「世界最高の人気
グループ」と報じられた4人組の到着までに、2000人近いファンが空港ロ
ビーに設けられた関門で追い返されたという。パトカーに囲まれ、ビー
トルズがホテルに到着したのは午前4時過ぎだった。
世界バンタム級タイトルマッチ
(ファイティング原田×エデル・ジョフレ)63% |
12月16日兵一 亡くなる |
6 | |
| [-] | 昭和42年 | 1967 | 【世界】中国清皇帝ラストエンペラー 溥儀 死亡 10/17
尿毒症61歳 |
8 | |||
| [-] | 昭和43年 | 1968 | 恵美子生まれる(武石診療所) |
8 | |||
| [-] | 昭和44年 | 1969 | アポロ11号人類初月面着陸 |
9 | |||
| [-] | 昭和45年 | 1970 | 日本万国博覧会(大阪万博)開催 |
1月29日母静子(常夫妻)亡くなる
清美と万博見に行く |
10 | ||
| [-] | 昭和47年 | 1972 | 札幌オリンピック開催 あさま山荘事件 沖縄返還 |
12 | |||
| [-] | 昭和48年 | 1973 | ひらけ!ポンキッキ始まる
1973.8.2 CTI Jazz In Japan 日比谷野外音楽堂
& 8.5 白樺湖畔 |
13 | |||
| [-] | 昭和49年 | 1974 | 課題曲:吹奏楽のためのシンフォニア
高度な技術への指標
【音楽】世界初 ウインドシンセ発売 Lyricon発売 |
14 | |||
| [-] | 昭和50年 | 1975 | 青木湖スキーバス転落事故
(死者24人長野)
蒋介石 死亡日: 1975年4月5日, 台湾 Taipei 士林官邸 |
上田市民吹奏楽団出来る。 |
課題曲:吹奏楽のための練習曲
映画:ジョーズ
映画:タワーリング・インフェルノ |
3月:中学校卒業 |
16 |
| [-] | 昭和51年 | 1976 | ロッキード事件 |
課題曲:吹奏楽のための協奏的序曲
【音楽】THE SQUARE結成 |
17 | ||
| [-] | 昭和52年 | 1977 | 王貞治ホームラン世界新記録樹立 |
課題曲:吹奏楽のためのバーレスク
【映画】「宇宙戦艦ヤマト」映画化
【映画】人間の証明
【映画】八つ墓村
♪ウォンテッド/ピンクレディー
♪案山子/さだまさし
♪勝手にしやがれ/沢田研二 |
18 | ||
| [-] | 昭和53年 | 1978 | 山口組組長狙撃事件(京都)
成田空港開港 |
西遊記(日テレ)~1980年までヒット
【音楽】サザンオールスターズデビュー
笑点34%
キャンディーズ解散 |
・高校卒業(3月)
この頃バンドや
キャバレーバンド狂う
トミーズ出来る |
18 | |
| [-] | 昭和54年 | 1979 | 【音楽】カシオペア誕生
現在は
野呂一生 1957年1月1日東京都出身 ギター バンドのリーダー。
メイン・コンポーザー。唯一のオリジナル・メンバー。
鳴瀬喜博 1949年11月13日東京都出身 ベース 1990年加入。
大高清美 10月18日埼玉県出身 キーボード 2012年加入。
今井義頼 1987年11月2日 ドラム 2022年加入。
お笑いオンステージ28% |
19 | |||
| [-] | 昭和54年 | 1979 | 【音楽】カシオペア誕生
現在は
野呂一生 1957年1月1日東京都出身 ギター バンドのリーダー。
メイン・コンポーザー。唯一のオリジナル・メンバー。
鳴瀬喜博 1949年11月13日東京都出身 ベース 1990年加入。
大高清美 10月18日埼玉県出身 キーボード 2012年加入。
今井義頼 1987年11月2日 ドラム 2022年加入。
お笑いオンステージ28% |
19 | |||
| [-] | 昭和55年 | 1980 | 【音楽】ABBA来日 日本国内11公演
♪贈る言葉
♪大都会
♪ランナウエイ
♪異邦人
♪ダンシングオールナイト
スター千一夜・三浦友和・山口百恵30% |
20 | |||
| [-] | 昭和56年 | 1981 | ♪風立ちぬ(松田聖子)
♪ルビーの指輪
♪長い夜
8時だヨ!全員集合47.6% |
21 | |||
| [-] | 昭和57年 | 1982 | ホテル・ニュージャパン火災(死者32人警視庁) |
〇電気屋開業 |
♪1月赤いスイトピー発売
♪冬のリビエラ
♪セーラー服と機関銃
♪チャコの海岸物語
♪カシオペア「朝焼け」
【映画】E.T.
欽ドン!良い子悪い子普通の子38% |
video撮影始める |
22 |
| [-] | 昭和58年 | 1983 | 東京ディズニーランド開園
ファミリーコンピューター発売
戸塚ヨット・スクール事件検挙
大韓航空機撃墜事件 |
♪思い出がいっぱい
♪氷雨
♪フラッシュダンス
欽ちゃんのどこまでやるの!42%
欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子36% |
23 | ||
| [-] | 昭和58年 | 1983 | ♪ワインレッドの心
欽ちゃんの週刊欽曜日31%
おしん62% |
23 | |||
| [-] | 昭和59年 | 1984 | 上田文化会館竣工
Maintosh発売 |
〇サウンドスナイパー |
笑っていいとも増刊号29% |
25 | |
| [-] | 昭和60年 | 1985 | 日本航空123便墜落事故(8月12日)
windows発売 |
♪恋に落ちて
♪OMENS OF LOVE(THE SQUARE)
【ゲーム】スーパーマリオ |
25 | ||
| [-] | 昭和61年 | 1986 | チェルノブイリ原発事故 (旧ソ連 現ウクライナ) |
♪チャチャチャ 天空の城ラピュタ |
初めてRPGというものを知る |
26 | |
| [-] | 昭和62年 | 1987 | 〇竹内先生のところの喫茶店手伝う
長野東通やテレビ信州、信越放送のバイトで長野通い。 |
【ゲーム】ドラゴンクエスト2発売
【音楽】T-SQUARE(THE SQUARE)改名
加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ36% |
27 | ||
| [-] | 昭和63年 | 1988 | ☆ソウルオリンピック |
〇丸子テレビ |
♪乾杯
となりのトトロ
【ゲーム】ドラゴンクエストIII
美空ひばり 没 |
テレビ東京オリンピック編集仕事 |
29 |
| [-] | 平成1年 | 1989 | 1月 平成に改元(日 不明) |
♪ダイアモンド
♪愛が止まらない
【ゲーム】テトリス
とんねるずのみなさんのおかげです29% |
29 | ||
| [-] | 平成2年 | 1990 | ♪浪漫飛行
【ゲーム】ドラゴンクエストIV |
30 | |||
| [-] | 平成3年 | 1991 | 東部町文化会館 開館
丸子町文化会館建設 |
♪SAY YES発売 |
5月結婚 小原さんから丸子文化の舞台係 やらないかと声かかる。 |
31 | |
| [-] | 平成5年 | 1993 | 8月 細川連立内閣成立 |
〇MTCへ |
ひらけ!ポンキッキ終了BSへ
【映画】ジュラシック・パーク |
7/19敬太誕生日
(信州上田医療センター/正夫高校野球撮影中だった) |
33 |
| [-] | 平成6年 | 1994 | 4月 羽田孜内閣成立 |
♪ロマンスの神様
【映画】平成狸合戦ぽんぽこ
【音楽】小室ブーム到来(小室哲哉)〜1997年頃まで
【ゲーム】ファイナルファンタジーVI |
34 | ||
| [-] | 平成7年 | 1995 | 1月 阪神淡路大震災(M7.3)発生
3月 地下鉄サリン事件 |
【ゲーム】ドラゴンクエストVI |
35 | ||
| [-] | 平成8年 | 1996 | 〇この頃丸子テレビ静止画放送システム作成納品 |
名探偵コナン放送開始
【ゲーム】ポケモン |
36 | ||
| [-] | 平成9年 | 1997 | 【映画】もののけ姫
【映画】タイタニック
【音楽】モーニング娘。発動(テレビ東京ASAYAN)
【ゲーム】ファイナルファンタジーVII |
10/7楓香誕生日
(信州上田医療センター) |
38 | ||
| [-] | 平成10年 | 1998 | 2月 長野オリンピック開催 |
電波少年30% |
38 | ||
| [-] | 平成11年 | 1999 | 〇IPA情報処理振興事業協会4月 |
♪だんご三兄弟
♪Loveマシーン
【ゲーム】ファイナルファンタジーVIII |
39 | ||
| [-] | 平成12年 | 2000 | 【ゲーム】ドラゴンクエストVII
【ゲーム】ファイナルファンタジーIX |
9/27寛哉誕生日(丸子中央病院) |
41 | ||
| [-] | 平成13年 | 2001 | 4月 小泉純一郎内閣成立
9月 アメリカ同時多発テロ
Windows XP発売 |
【映画】千と千尋の神隠し
【映画】ハリー・ポッターと賢者の石
【ゲーム】ファイナルファンタジーX |
・この頃焼き物に狂う
・5月鴻巣行く
・5/26研究センター/音楽村祭り家族来る
・6月10日茶臼山動物園
・7/15美ヶ原高原家族とハイキング
・7/22家族と群馬サファリパーク
・8/5サンリオへ家族と旅行 |
41 | |
| [-] | 平成14年 | 2002 | 上田市 母袋創一 初当選 |
【映画】ハリー・ポッターと秘密の部屋
2002FIFAワールドカップ™グループリーグ・日本×ロシア62% |
武石 家新築 |
42 | |
| [-] | 平成15年 | 2003 | 【映画】踊る大捜査線 THE MOVIE2
【映画】ラスト・サムライ |
8/10家族と白樺湖花火大会へ
10/12家族で軽井沢遊園地へ |
44 | ||
| [-] | 平成16年 | 2004 | 東御市発足
3月 ニュースステーション
久米宏 降板
まつもと市民芸術館オープン |
【映画】ハウルの動く城
♪ハナミズキ
【映画】ハリー・ポッターとアズカバンの囚人
めちゃ×2イケてるッ!32% |
この頃中丸子公民館祭典係
1/11善光寺へ新年おまいり
4/1家族横浜旅行
4月楓香丸子中央小学校入学
5/3家族と飯山菜の花公園
8/10家族で白樺湖花火大会
11/28楓香ピアノ発表会
秋:4180廃車この車で
子供育ててもらった(10月26日写真あり)
肝炎がわかったのが、この頃 |
44 | |
| [-] | 平成17年 | 2005 | JR福知山線脱線事故4/25 |
おそらく、父死亡後ハルタでバイト |
【ゲーム】どうぶつの森
【ゲーム】もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング |
4/24常夫死亡
5月飯山菜の花
ひろ、保育園 |
45 |
| [-] | 平成17年 | 2005 | ■NPO法人Js文化フォーラム設立
〇情報センターLinuxOS組み込み納品
〇各企業数社Linux WEBサーバ作成納品 |
フランス2005年の文化省予算は、約28億ユーロ(約4200億円)、国家予算
全体の約1パーセントを占める。我が国が1016億円であり、国家予算全体
(82兆1829億円)の0.1パーセント、人口はフランスの約2倍であることを
勘案すると、フランスが文化政策をいかに重要視しているかが理解できよ
う。 |
46 | ||
| [-] | 平成18年 | 2006 | 上田市合併
丸山晩霞記念館開設
東御市文化会館音響改修工事 |
〇ハルタ 東御市CMSシステム作成納品
〇ハルタ 川上村CMSシステム作成納品 |
【ゲーム】ファイナルファンタジーXII |
3/18敬太中学校卒業
4/3城山動物園
7/16楓香義仲行列参加
10/9ひろ稚児行列
10/14 参観日参加
11/11 ピアノ発表会 |
46 |
| [-] | 平成19年 | 2007 | 行列のできる法律相談所35% |
4/15家族で上田城桜を見に。
11月楓香・ひろピアノ発表会 |
47 | ||
| [-] | 平成20年 | 2008 | 花岡利夫 東御市長 初当選(4/25)
12月祢津オペレッタ練習~本番へ |
■東御市文化会館 舞台業務 受託
■NPO法人Js文化フォーラム事務所
新張1744番地に移転
4/1 島田、大竹、坂口、入社
11/1 山岸入社 |
♪手紙 〜拝啓 十五の君へ〜
【映画】崖の上のポニョ |
9月上田市行政チャンネル始まる
GMail使い始める経理の道へ |
48 |
| [-] | 平成21年 | 2009 | 【世界】マイケル・ジャクソンが急死
東御市文化会館照明改修工事
Windows 7発売 |
■第一期東御市文化会館指定管理者受託
■種子4/29
■パフィー7/23
■倉木麻衣9/21
■斉藤和義10/17
■きみまろ11/08
4/1 金井 黒沢 依田 土屋 入社
8/20 藤井 入社
〇文化会館WEBサーバとページ作成
〇文化会館経理システム作成 |
【映画】サマーウォーズ細田守
【映画】アバター
【ゲーム】ドラゴンクエストIX |
・1月島田功さん葬儀
・5/3スクエアエニックス行く
・このころ「カノン」くる
(ジャンガリアン) |
49 |
| [-] | 平成22年 | 2010 | ■ショパン11/28
■藤井フミヤ12/11
大森先生トラブル発生 エフエムとうみ開局 10月 |
夏ころチャー家族となる
ひろ「コマ」に狂う
6月ヒロからパパへの手紙 |
50 | ||
| [-] | 平成23年 | 2011 | 3月 東日本大震災(M9.0)発生 |
3月 東日本大震災(M9.0)発生
|
51 | ||
| [-] | 平成23年 | 2011 | 3月長野市民会館閉館 |
■ワンワンと遊ぼう5/8
■祝賀能(宝生流)10/1
■熱帯ジャズ8/20
■尾木直樹(1/22)
■ダンスフェスタ2/19
Js文化フォーラムLLC開業 |
4/4家族で上田公園の桜花見
7/15楓香とハリーポッター映画
8月女神湖方面家族とドライブ |
51 | |
| [-] | 平成24年 | 2012 | 小諸市民会館閉館 |
■メリー・ウイドウ6/3
■ベッキー6/24
■モモ9/1
■ドラスコ
6/1山田入社 |
12月桜井充生さん葬儀
3/16宮崎駿ミュージアム三鷹
10/14家族で木曽赤沢渓谷へ
PTA |
52 | |
| [-] | 平成25年 | 2013 | 小原謙一死去9/22 |
■NPO法人Js文化フォーラム事務所
田中557番地に移転(10/21)
■シエナウインドオーケストラ(5/25)
■祢津歌舞伎
■山本潤子・野呂一生など
伊藤3/21入社 |
【映画】風立ちぬー映画 |
・叔母ちゃん亡くなる1/30
・敬太高校卒業(3/19)
・3/18楓香中学卒業→蓼科高校へ
・ひろ小学校卒業(3/19>
・諏訪湖花火中止(奈美と)
・秋木曽赤沢渓谷 |
54 |
| [-] | 平成26年 | 2014 | サントミューゼオープン10/2
山口淑子(李香蘭・大鷹 淑子)死去91歳 |
4月第二期スタート
■さかなクン(5/10)
■白鳥英美子(6/14)
■夏の雲は忘れない(7/18)
■渡辺貞夫(7/25)
■川島あい(3/25)
■貢 甚一郎氏 理事長に就任3/21
斎藤(バラ)6月1日入社
増田敏監事に就任8/1 |
【映画】アナと雪の女王
レット・イット・ゴー |
1/9奈美母 明子さん亡くなる
2月大雪 |
54 |
| [-] | 平成27年 | 2015 | 10月 個人番号カード通知始まる
Windows 10発売 |
■増田 敏氏 理事長に就任(4/14)
■八代亜紀(7/12)
■中村雅俊(11/3)
■サリナジョーンズコンサート(12/18)
3月末 貢氏退職
4/1 増田 入社日 |
自己管理に
Googleカレンダー使い始める
4月 チャーと上田公園さんぽ
7/18楓香と金沢工業大学見学にゆく
8/20 楓香踊り発表会 |
55 | |
| [-] | 平成28年 | 2016 | 4月 熊本地震(M7.3)発生
1/10からNHK大河ドラマ「真田丸」放映開始
篠ノ井市民会館閉館
長野市芸術館オープン |
■掛川益子さん退職(4/30)
■斎藤晶子退職(4/30)
■フォレスタ(9/16)
■吉田記念オーケストラ(11/3)
■ToMeコンサート
サンプラザ中野君バンド(1/22)
5/1 佐藤清さん・掛川(バラ)入社
4/30 斎藤(バラ)退職 |
【映画】君の名は。 |
・1年間楽しく忙しく真田丸関連撮影
3/25楓香金沢へ引っ越し「コーポ竹内」
石川県野々市市扇が丘17-16
・楓香金沢工業大学入学
・7/9大量の発疹
・行政チャンネル/ふるさとCM大賞準優勝 |
57 |
| [-] | 平成29年 | 2017 | 防災ヘリ墜落、9人全員死亡
九州北部豪雨
Youtubeがテレビを追い抜きつつある |
■第1回 SUNTERRACE JAZZ FESTIVAL
(谷口英二、堀内美千代)
■青春ポップスコンサート5/20
■【展示】米津福祐 雷電展 9/30~10/1
■【共催】稲川淳二の怪談ナイト10/14
■【大型】加藤登紀子コンサート2/12
■三溝省吾 退職(1月)
■伊藤早由 退職(3月)
■山田顕義 退職(6月)
■土屋正人退職3/31
2/1岡野 入社
小松(LLC)
6/21 堀内入社
7/21伴 入社 |
サンテラスバンド活動始める
5月1日 3159ノア廃車
(仕事・家族が世話になった本当にありがとう!)
10月16日第一回目入院 |
57 | |
| [-] | 平成30年 | 2018 | 上田市 土屋陽一市長誕生
NHKが民放のごとくになる
俳句番組が人気 |
■第2回 SUNTERRACE JAZZ FESTIVAL
(BREEZE たおやめオルケスタ)
■渡辺貞夫コンサート5/20
■船山滋生と八重原工人社7/17
■清塚信也ピアノリサイタル11/3
■築田かな 子供読み聞かせ11/23
■音符のおまつり12/16
■トランペットとピアノで贈る音楽のブーケ1/20
■アンサンブル・ノーヴァ青島広志3/16
FMとうみの件
2月 小川入社 |
3Dゲームが映画品位になる
BUBGゲーム流行(韓国発)
Lemon 米津玄師 |
3月上田行政チャン入札負ける
5月末 2回目の入院
佐々木先生監事に就任
7月下旬からバイクに乗る(マグナ50) |
58 |
| [-] | 令和1年 | 2019 | 3/31平成最後の日 |
■伴朱音退職3月
■佐藤清退職3月
■林修講演会4月13日
■山浦一将君入社4月21日 |
ひろ金沢工業大学合格
H31/3/25日金沢へ
(奈美ついていく) |
59 | |
| [-] | 令和1年 | 2019 | 令和元年スタート
大型台風12号 中部日本を襲う
東御橋崩落、長野市浸水被害、武石一ノ瀬橋崩落、
雲渓荘連絡路被害寸断 |
4月 第三期スタート
■林 修(4月13日)
■南川 鍵盤ハーモニカ(5月10・11・12)
■第3回 SUNTERRACE JAZZ FESTIVAL
(5月19日)
■征爾小沢スクリーンコンサート
(8月23日)
■小川の演劇公演と小川の弾き語り
(県内3か所)
晩霞記念館「猫まみれ展」7月~9月
小川10月退職 静岡へ
■村治佳織コンサート |
日韓関係最悪化
フジテレビ経営悪化
【映画】天気の子 |
茂利、上田住吉引っ越しのため、沖に10月中旬から住まう。
⇒12月初旬に出る
ヒロ:退学する
敬太長野泊11/12~14,12/15~18
12月武石給湯器故障水漏れ修繕
奈美:中丸子保育園にパート |
59 |
| [-] | 令和2年 | 2020 | 【世界】中国を発信源とするコロナウイルスが猛威を振るう。
志村けん コロナで死亡3/29 |
坂口役員になる
立野さんJs就職きまる
3月山岸恵/黒沢千恵子退職(長年ありがとう)
■3月のロビーコンサート・ピアノのゆふべ中止!
■4月4日のPrimaveraを10月に延期
■Youtube動画の撮影・編集4月末頃から本格化
丸山晩霞美術館の映像作品12本作成
東御市文化協会作品数多く作成Youtube動画に。
UCVとの交流も盛んになる。
逆にエフエムとうみとの仕事が激減
楽月園さまから草刈り仕事頂く。
年間200万円 大田区の草刈り |
鬼滅の刃 |
2月楓香卒論発表/就職きまる
征矢先生生前葬の準備始める(2月)->コロナで中止
チャー、ヒロと遠路散歩
武石本籍地 長屋少しずつ解体開始。
武石 敬太のところに住民調査と名乗る謎の人物訪れる。
敬太困惑。 |
60 |
| [-] | 令和3年 | 2021 | 東御市文化会館改修工事始まる
東京オリンピック コロナの中始まる。
7/23 開会式は20時より。ドラゴンクエストテーマ使われる。
8月東京のコロナ患者月5000人超える(新規) |
★ホール天井改修工事
★ホール空調工事
火のアートフェスティバル2021
本年も楽月園さまから草刈り仕事頂く。
佐々木医院 ロビーコンサート
藤井さん退職 |
ちゃー11歳 顔が白くなってきた。
楓香金沢で就職し、富士通系の会社の仕事始める。
ソフトの動作確認試験しているらしい。
8月末楓香 千葉へ転勤 |
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| [-] | 令和4年 | 2022 | ロシア ウクライナに戦争始める。
・6月 異常な高温。 異常気象。
・7月 再度コロナ猛威を振るう
安倍晋三 銃弾に倒れ、国葬儀が行われる9月27日 |
4月 坂口洋子さん職員になる
楽月園の仕事なくなる
【大型】コロッケライブ(同日2公演)
火のアートフェスティバル2022
理事長宅旧宅壊し始まる
10月市長へ苦情手紙発生10月12日 |
4月から田中駅コンサートフロントに田中グループ参戦
9月一杯をもって、田中駅定時コンサート終了
【音楽】東京佼成ウインドオーケストラ 立正佼成会より独立 |
・敬太と喧嘩
・茂利 神棚返還
1/7 チャー病気 死ぬ寸前だった |
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| [-] | 令和5年 | 2023 | 4月ムツゴロウこと畑正憲さんが逝去 残念無念
5月25日中野市で警官や市民4名が殺害される事件起こる
10月イスラエル軍のガザ侵攻(ガザ戦争の再発)
秋:音響の後藤さん(崔さん)亡くなる |
5月清塚慎也ピアノライブ(YAMAHA使用)
歴史-モーツァルト
歴史-ベートーヴェン
(徳島まで取材へ)
中学校の「音楽の歴史」 |
もろこしフェス問題おこる
文化会館水道タンク水漏れ発生 |
上田市民吹奏楽 山﨑さん(トランペット)4月亡くなる
島田明子さん5月(ガン、残念)
清美 義理母亡くなる。5月
11月、寛哉 大竹さんの仕事手伝うようになる。 |
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| [-] | 令和6年 | 2024 | 大竹さんガン手術(1月?)
バラ問題
1/1能登半島大地震 |
4月受託 第4期スタート
1月から、柳沢さん臨時職員で、文化協会の仕事に就く。
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行政担当から、若林さん外れる。かわりに日向さんに。 |
・寛哉4月から再度大竹さんの仕事手伝う
・5月楓香仕事をやめ、自宅に帰る。
ちゃーの看病をしてくれた。
・チャー一生を終える。5/18日。 今まで本当にありがとう。
楽しかった。チャーが心の支えだった。 |
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| [-] | 令和7年 | 2025 | トランプ大統領に返り咲く
猛暑酷暑
AIが進化、そして様々な問題も出る |
30周年記念コンサート
3月末 坂口洋子さん退職
商店街拡声システム企画のみ
音の絵本コンサート |
・ひろ丸子文化就職試験するが、落ちる。でも舞台バイトが入る6月より。
・坂口の前妻長男亡くなる |
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